植物的認識とは……

植物について哲学的に語るのはなかなか難しそうだ。そのことを改めて思わせるのが、フランスのヴラン社が刊行している『カイエ・フィロゾフィック』2018年第一四半期(no. 152)2018第二四半期(no. 153)号。同誌はその2号連続で、「植物、知と実践」という特集を組んでいるのだが、そこに収められた論考は、そうした語りにくさを如実に表しているような印象を受ける。先のコッチャの著書のような先鋭的なスタンスにはもちろん遠く、小麦などの個別の表象史であるとか、人類学的なアプローチで人間と植物の関連性を描こうとするとか、あるいは遺伝子組み換え作物のようなアクチャルな問題を取り上げるとか、周辺的なところから攻めているものが多い印象だ。その意味では、少し残念な気もしないでもない。ちなみに同誌no.152の書評のページでは、先のコッチャの著書も紹介されていて、評価と批判的指摘などが記されている。

そんな中、no.153のほうに、とくに眼を惹く論考があった。モニカ・ガリアノ「植物のように考えるーー行動学的生態学および植物の認識的性質に関するパースペクティブ」という論考。これはこの特集において突出して興味深いものになっている。植物学の世界でこの20年ほど進んでいる研究に言及しながら、植物にとっての「認識」がどのようでありうるのかを示唆する内容だ。それによると、最近の研究で明らかになっているらしいのは、植物にも同種を見分ける認識能力、あるいはなんらかのシグナルを発する能力が存在するらしいということ。そこでの認識能力は、もちろん動物のような神経系によるものではなく、環境とのインタラクションにもとづくもので、詳しいメカニズムはまだ解明されていないとされるが、すでにして、人間心理をモデルとしてきたこれまでの動物行動学的な視座を問い直す契機になるのではないかという。

論文著者はそうした植物の認識メカニズムを、「アフォーダンス」的な観点から捉えることを提唱している。植物が発するある種のシグナルは、コウモリなどの反響による位置特定メカニズムにも近いものとされ、植物も同種の個体が近くにいることや、自分が置かれた環境(場所)がどのような状態にあるかといったことを、感覚器官によらずに取り込んで認識している、という。植物的生命というのは、アリストテレスが考えたような静的なものではまったくなく、人が思い描く以上に、はるかに複雑で繊細な機能を備えている、と著者は指摘する。ほかの個体が発する匂いや音(あるいは震動)、さらには外見の様子にいたるまで、植物は、それらを直に情報として取り込んでいる可能性があり、それが認識論についての全般的な再考を促す可能性があるというわけだ。この分野もまた、眼が離せない状況になっているということか。

植物称揚の裏面

アルペイオスの流れ: 旅路の果てに〈改訳〉 (叢書・ウニベルシタス)前回取り上げたコッチャの著書は、植物が惹起する壮大な世界観を打ち出しているのだけれど、一つそこにないものがあるとすれば、それは人がそうした植物に感じる畏怖もしくは恐怖の感情だろうと思われる。肯定的な植物的世界観の裏返しでもあるわけなのだが、その生命力の力強さは、ある種の恐れを喚起する。たしかに身近なところでも、放っておくとあっという間に雑草に覆われる更地や、手入れがなされなければカオスへと戻っていく森など、植物がらみで恐怖を呼び覚ます要素はいたるところに見いだされる。なぜ恐れを醸してしまうのか、というのも興味深い問いではある。

植物のそんな側面について、自己の心情吐露と世界観の提示を重ね合わせたような文章に、カイヨワのものがある。ロジェ・カイヨワ『アルペイオスの流れ: 旅路の果てに〈改訳〉 (叢書・ウニベルシタス)』(金井裕訳、法政大学出版局、2018)の第一部第6章「植物の条件」がそれで、カイヨワはそうした畏怖の念を中心テーマとして描いている。植物は「自然のなかで密接につながった、解きほぐせない界」だといい、そこは空恐ろしいほどの過剰に満ちあふれていると説く。「無際限の多産性」に自分は反感を抱くのだ、と。豊穣さ・多産さの裏返しとしての恐怖・不安。カイヨワは鉱物論の人(というのは一面的すぎる見方かもしれないが)だけに、さもありなんという気もするのだが、ここではそれは一般論へと敷衍されていく。「都市文明は、葉緑素の消失が差し迫っていることに不安を抱いていると同時に、都市文明をもってしは阻止することのできない植物のもたらす被害にも不安を抱いている」。カイヨワを貫いている基本認識は、次の一節に見いだされるのかもしれない。「世界は眼に見える葉むらとなって終わるのではなく、触知することのできない、相互に浸透し合う建築物となって終わる」……。ここに言及されているのは、人間という種が生命の渦のようなものの中に取り込まれて、霧散し消えていくことへの恐怖なのだろうか?

大気と植物と

La vie des plantes : Une métaphysique du mélange先日まで呼んでいたインゴルド本は、ある意味世界というものの混合状況、さらに言えば一元論的なものへの回帰と捉えることもできそうだ。で、これはインゴルドに限らず、ある種のパラダイムシフトとして進行しつつあるような印象をも受ける。たとえば、そうしたシフト感を強く訴えているものとして、エマヌエレ・コッチャの『植物生命論』(Emmanuele Coccia, La vie des plantes : Une métaphysique du mélange, Éditions Payot & Rivage, 2016)がある。以前アヴェロエス主義をめぐる著書が興味深かった同著者は、文献学的なものから哲学エッセイのほうへと重点を移しているように見える。伊語からの翻訳ではなく仏語で書かれたらしいこの著書は、植物というものが、動物全般の、ひいては人間の生を下支えしているのに、考察の対象としては限定的にしか取り上げられない状況から説き起こし、植物を核に据えた哲学的な考察をめぐらしたもの。その考察は、単に植物の生態などにはとうてい収まらない、あらゆるものが混合するという突き抜けた壮大な世界観にまで広がっていく。まさに上記のパラダイムシフト的な前衛、野心作という感じだ。

光合成が作り出す空気は、動物に呼吸を強いたわけだが、呼吸(あるいは大気)とはつまり、外にあるものが内に入り、内のものが外に出ることだと、著者は喝破する。つまりは生体と環境(知覚で言うなら主体と対象)とが、一続きで相互に入れ替えられうるものであることの証左である、と。知覚の問題も同様で、植物は感覚器官をもたないがゆえに、環境世界を全身でもって全体的に捉えている、あるいは環境世界の中にまさしく浸っている、とされる。その場合の浸りとは、上の呼吸をも包摂する、いわば世界との一致、相互浸透、混合のことにほかならない。世界は総じてそのようにできてはいまいか、というわけだ。こうして、先のインゴルドが人類学者ゆえにか踏みとどまっている、ある種の「弱まった人間中心主義」のような部分を、コッチャはやすやすと越えて、その先へと突き抜けようとする。もはや問題なのは人間ではない、宇宙であり、天体であり、コスモロジーなのだ、と言わんばかりに。哲学にコスモロジーを取り戻せ。それがこのマニフェスト的著作のスローガンでもある。

空を見るということ

前回の続きになるが、再びインゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学から。第二部にあたる大気についての試論がなかなか印象的だ。そこでとくに目を惹くのが、アフォーダンスの提唱者ギブソンと、現象学のメルロ=ポンティとの、空の知覚をめぐる想像上の対話だ。天空は、それを見る者にとって巨大な半球として現れるとギブソンは言い、そこに雲や天体などが浮かんでいるように見えるのだとする。しかしながら、そうすると、そこに含まれる視覚対象の事物の中に、光そのものが含まれないという問題が生じる。見えるものは光によって明らかにされたものであって、光そのものではない、とギブソンは主張する。けれども、では空は?空には「表面もない」のに、なぜそれを見ることができるのか?

ここで登場するのがメルロ=ポンティだ。天空の光自体は知覚の対象にならないが、空と光はそもそも同じものであって、空を見るとは内側から光を経験することだとメルロ=ポンティは言うだろう(と、インゴルドは述べる)。さらにまた、空の青さが見る者の意識を満たしていく、と。視覚は「わたし」を「わたし」自身から不在とし、一方で感覚対象をおのれの目の中で輝かせるのであり、知覚する側と知覚される側とが出会うとき、それは一種のスパークが生じているのだ、と。これはすぐさま、ゲーテの「もしも目が太陽のようでなければ、目は太陽を見ることができなかっただろう」という言葉に重ねられる。空に輝く太陽は、わたしたちの目からも輝いているのだ、というのだ。そして生物学者のユクスキュルもまた、同じようなことを言葉を変えて述べる。いずれにしてもここには、対象を自己と切り離さない知覚の在り方(おそらくは本来的な?)、主体と対象(あるいは環境世界)とがもとより混合しているかのような世界観が示唆される。

アナロジーの照応の渦巻き?

ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学今週もあまり空き時間がない一週間だったが、息抜きとしてティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学』(筧菜奈子、島村幸忠、宇佐美達朗訳、フィルムアート社、2018)をときおり眺めている。前作『ラインズ 線の文化史』(ブログ記事も参照)に続く本作は、広義のエクリチュール論みたいな部分をさらに大きく超えて、気象・大気といった、哲学的にあまり顧みられない事象の考察へと足を踏み入れいれている。ライン(曲線をも含む)概念がそれらにどう繋がるのかといえば、ラインがなんらかの存在論的な資格を得るとすれば、そこにはラインを紡ぎ出すおおもとで、ラインと相補的な関係をもなす、これまた広義のブロブ(塊)がなくてはならず、そうした集積をなすアナロジーとして引き合いに出されるのが、たとえば気象現象としての台風のような渦巻く結節点だったりするのだ。そうした「渦巻き」は、ベルクソンが言うように(「生ある存在は生の流れの中に放り込まれた渦巻きのようなものである」)生物全般に見いだされる有機体の「渦巻き」とも照応する、とされる。それは大気にも、海洋生物にも、さらには人間集団の行動にも、同じように見いだすことができるのだ、とインゴルドは言う。アナロジーとしての相互の照応の連鎖。それこそが、インゴルドの「ライン学」を支える枠組みだといえそうだ。すべての事象を、ある意味「気象学」として、ラインと渦巻きの変成作用のごとくに読み解くこと。けれどもそれは、吹き荒れるアナロジーの暴風をみずから創り出して、その中に飛び込んでいくかのような、通常の論証などとは別筋・別次元の、どこか危うくもある企て、という気がしないでもない……(?)。

nyx 第5号とりあえず、まだ読了はしていないし、インゴルドの向かう先も今一つ掴めていないので、そうした判断は保留にしておくれけれども、それとは別に、このところなにやらデュルケムとモースの系譜の話を個人的にはよく目にするように思う。たとえば、夏頃に刊行されたnyx 第5号』(堀之内出版、2018)の第一特集「聖なるもの」でも、デュルケム=モースの系譜(それもまたラインだが(笑))が、「聖なるもの」が孕む諸問題の発出点として重要視されていたように思う。インゴルドにおいても、着想源の一つが両者の系譜にあるのはほぼ確かなようで、繰り返し何度か言及されていたりして、なにやらとても印象的だ。デュルケム=モースに少しばかり立ち返ってみるのも、有益かもしれないと思い始めているところ。