植物称揚の裏面

アルペイオスの流れ: 旅路の果てに〈改訳〉 (叢書・ウニベルシタス)前回取り上げたコッチャの著書は、植物が惹起する壮大な世界観を打ち出しているのだけれど、一つそこにないものがあるとすれば、それは人がそうした植物に感じる畏怖もしくは恐怖の感情だろうと思われる。肯定的な植物的世界観の裏返しでもあるわけなのだが、その生命力の力強さは、ある種の恐れを喚起する。たしかに身近なところでも、放っておくとあっという間に雑草に覆われる更地や、手入れがなされなければカオスへと戻っていく森など、植物がらみで恐怖を呼び覚ます要素はいたるところに見いだされる。なぜ恐れを醸してしまうのか、というのも興味深い問いではある。

植物のそんな側面について、自己の心情吐露と世界観の提示を重ね合わせたような文章に、カイヨワのものがある。ロジェ・カイヨワ『アルペイオスの流れ: 旅路の果てに〈改訳〉 (叢書・ウニベルシタス)』(金井裕訳、法政大学出版局、2018)の第一部第6章「植物の条件」がそれで、カイヨワはそうした畏怖の念を中心テーマとして描いている。植物は「自然のなかで密接につながった、解きほぐせない界」だといい、そこは空恐ろしいほどの過剰に満ちあふれていると説く。「無際限の多産性」に自分は反感を抱くのだ、と。豊穣さ・多産さの裏返しとしての恐怖・不安。カイヨワは鉱物論の人(というのは一面的すぎる見方かもしれないが)だけに、さもありなんという気もするのだが、ここではそれは一般論へと敷衍されていく。「都市文明は、葉緑素の消失が差し迫っていることに不安を抱いていると同時に、都市文明をもってしは阻止することのできない植物のもたらす被害にも不安を抱いている」。カイヨワを貫いている基本認識は、次の一節に見いだされるのかもしれない。「世界は眼に見える葉むらとなって終わるのではなく、触知することのできない、相互に浸透し合う建築物となって終わる」……。ここに言及されているのは、人間という種が生命の渦のようなものの中に取り込まれて、霧散し消えていくことへの恐怖なのだろうか?