擬アリストテレスの植物論

Pseudo-aristote, Du Monde: Positions Et Denominations Des Vents; Des Plantes (La Roue a Livres)レ・ベル・レットル社から出ている擬アリストテレスのシリーズから、『世界について・風の位置と名前・植物について』(Pseudo-aristote, Du Monde: Positions et Dénominations des Vents; Des Plantes (La Roue à Livres), trad. Michel Federspiel et al., Les Belles Lettres, 2018)を見ている。このところの流れで、個人的な注目テキストはやはり『植物について』。この書はギリシア語原典が失われ、シリア語版が残り、そこからアラビア語版、ラテン語版、ギリシア語版などが派生しているもの。今回のテキストはラテン語版からの仏訳。アリストテレスの真正のテキストではないというのが一般的な見解で、おそらくは逍遙学派の誰かが著したのだろうという。同書の解説序文によれば、テオフラストスの植物論にも一部呼応しているという。

で、この擬アリストテレス『植物論』だが、解説序文でもまとめられているが、全体は第一書と第二書にわかれ、第一書はさらに前半と後半にわかれる。つまり全体で3つの部分から成り、最初が植物における感覚の有無の問題や存在論的位置づけなど、二つめの部分が植物の分類、三つめは環境などを含む植物の生成に関する議論、という感じになっている。このうち、とりわけ注目されるのは第一の部分。逍遙学派の立場では、植物には感覚などはなく、呼吸や睡眠もなく、きわめて静的な生命であるとされていて、こうした議論それ自体はさほど面白くないのだけれど、そこで示され反駁されている異論のドクソグラフィ的な言及には大いに興味がわく。とくに言及されているのはアナクサゴラスやエンペドクレスの説。両者は植物にも快不快などの感覚があると考えていたという。アナクサゴラスは、植物も呼吸をすると考えたようだし、エンペドクレスはまた、植物は雄雌が一体化していると説明していたらしい。ちなみにこの『植物論』の逸名著者は、その性別の一体化を認めると、植物を動物以上に完全な存在になってしまうとして、この説を斥けている。いずれにしても、アナクサゴラスやエンペドクレスのほうに、植物についての現代的な知見は再接近しているように思われる。