雑感:WSL環境

世間的には連休初日だということもあり、とりあえずITがらみの雑文でお茶を濁そう。このところ実に久々に、OSのインストールから設定への流れを楽しんでいるところ。

2週間ほど前、古いiMac(2009モデル)にWindows10を入れるというのをやってみた。win10のディクスイメージをCD-ROMに焼き、そちらからブートしてインストール。古いMacOS(El Capitan)付属のBootcampユーティリティからドライバを拝借しそれらもインストール。時間はそれなりにかかったが、これで無事に古いiMacでWin10が立ち上がる。ただ、キーボードはMac仕様なので使いにくく、そのためネットで対処法を探し、レジストリなどを少々いじったりしてカスタマイズしたりした。久しぶりのインストール作業は面倒ではあったけれど、それなりに楽しい(笑)。

さらにその後、今度はWSL(Windows Subsystem for Linux)を有効にして、Windows環境にLinux環境をこしらえてみた。前に別のwinマシンのWSLにUbuntuを入れてみたことがあったので、今回は有償で出ていたPengwinパッケージ(Debianベース)とX410を入れてみた。合わせて3000円(期間限定?)なり。そちらもインストール自体は簡単だけれど、その後のカスタマイズではそれなりに時間がかかった。大きな問題はいくつかあり、そのうちの1つが日本語フォント導入後のgtk-3.0。メニューその他の表示(文字やアイコン)がとにかく大きすぎて、そのままでは使えない。けれどもどこで設定するのか探すのに手間取る。ホーム下の.configディレクトリから、gtk-3.0ディレクトリ下のsettings.iniでフォントは変更できるけれど、openboxディレクトリ内のrc.xmlも編集しないといけないことがわかるまで、ああでもないこうでもないと結構時間をロスした。

日本語入力も、fcitx-mozcの導入で入力自体はできるものの、GUIでのemacsはもとより、geditやleafpadといった軽量エディタでも、あるいはfirefoxでもインライン入力ができないという問題に遭遇。fcitxの設定で直るという情報はあちこちにあったのだけれど、何度やっても有効にならない。ところが昨日、何かの拍子にいきなりインライン入力ができるようになった(emacs以外)。なぜいきなり直ったのか不明。タイミングとしてはwindows用キーボードを別途使い始めてから直ったので、何かそのあたりに要因があった……のかしら???

残る大きな問題は二つ。一つは、Windows側でコピーしたものをXwindow側でペーストできない点。ターミナルでならできるので、ターミナルで開いたemacsとかなら問題ないが、できればGUIエディタなどでもWindows側からコピー&ペーストしたいところだ。もう一つは、Linux側に入れたVisual Stuido Code(やはり最初は表示が大きすぎたが、ユーザ設定でzoomを設定することで解決。これも設定箇所を見つけるのに手間取ったものの一つ)でのpythonの連携など。連休中にこのあたりはなんとかなるのかならないのか……。でもこういうのをいじくり続けるのは決して嫌いではない(笑)。

動物からのグラデーション

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)今週もあまり時間が取れなくて、本読みは低迷中。というわけなのだけれど、いちおう今週見ているのはこれ。アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』(高島和哉訳、法政大学出版局、2018)。まだ全体の3分の1ほどの6章目まででしかないが、マッキンタイアがプルタルコスの系譜に名を連ねていることは実によくわかる。動物と人間との線引きを強調してきた過去の哲学的議論を批判的に相対化し、両者の差異をグラデーション、程度の差として捉え直すことを提唱している。マッキンタイアは、言語をもたないもの(すなわち動物)に、信念(概念化と判断)を帰することに反対する論者たちが、全般に、みずからの論を支える根拠を提示できていないことを示していく。たとえば真と偽との前言語的な区別が、言語を用いる諸能力と地続きであることを言い募る。

もちろん、言語をもつことによって獲得された能力には、前言語的な根をもつ信念を反省的に捉え返す(あるいは判断の理由をもつ)といった側面が含まれるわけだけれど、それもまた、連続性の相のもとで見直す必要があるのだ、ということのようだ。確かにそれは言えているだろう。前回、プルタルコスの考える動物の推論があまりに人間的・言語的だというようなことを記したけれど、プルタルコスがやや性急に、あるいは一足飛びに連続性を強調してしまうところで、マッキンタイアは慎重に踏みとどまり、より精緻な検証を加えようとしているかのようだ。同書は副題にもあるとおり、徳の概念にまで話が及んでいくようで、最初の3分の1を読んだ印象としては、話の流れとして他の動物にもそうした徳性が当てはまるというところにまで進んでいきそうに見える(?)。そのあたりについては改めてメモすることにしよう。

動物の論理性

Plutarque, Oeuvres Morales: Traite 63, L'intelligence Des Animaux (ollection des universites de France)このところ目を通しているのが、プルタルコスの『モラリア』から第63論考「陸生動物と水生動物のいずれがより賢いか」(底本:Plutarque, Oeuvres morales: Traité 63, L’intelligence des animaux (collection des universités de France), trad. par J. Bouffartigue, Les Belles Lettres, 2012)。まだざっと前半のみ。動物と人間とのあいだに明確に線引きをするプラトンやアリストテレス、さらにはストア派などと違って、プルタルコスは動物に不完全ながらある程度の理性・知性の存在を認めている。それを示すため、この対話編では様々な動物の諸行動について言及する。それらを実例として、動物のもつ知性的な面を言い立てていく。

たとえばトラキア人たちが凍った川を渡る際に、キツネを参考にする話が出てくる。キツネは川の近くまで来て、耳をそばだてて、氷の下を水が流れている音がすれば、底まで凍ってはおらず氷は薄いと推論し、歩みを止めるとされる。プルタルコス(というか、対話編の登場人物であるアリストティモス)はここで、「音を出すものは動いている。動いているものは凍っていない。凍っていないものは液状である。液状であるものは抵抗力がない」という弁証がキツネにおいて成立しているのだとみなす。あるいはまた、歩いている犬が岐路にさしかかる際、その犬は選言的(!)に、次のような三段論法を繰り広げるのだ、と。「(追いかけている)獣は、この道、あの道、もう一つの道のいずれかを行った。この道とあの道でないのは確かだ。よってもう一つの道を通ったに違いない」。

このあたり、あまりに言語的な析出に依存した推論形式の記述だという印象はぬぐえない。そうした人間的な言葉に依存した弁証法的な推論が、動物においてどこまで正当なものとして働いてはいるのかはわからないが、動物の判断はもっと瞬時に、いわば短絡的になされている印象もあるわけで……。こうしたステップ・バイ・ステップでの分析的な推論構成は後付けにすぎないこと、そしてそれをもってはじめて「理性的」と評されることには、やはりどこか微妙な違和感がないわけでもない……と。自分でもあまり整理できていないが、動物が体現する論理性は、それだけで大きな問いを投げかけていそうに思える。

機械のなかの疑似生命たち

作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門本読みの時間があまり取れなかったが、今週の一冊はなんと言ってもこれ。岡瑞紀・池上高志・ドミニク・チェン・青木竜太・丸山典宏『作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門』(オライリー、2018)。AI人気の昨今ではあるけれど、こちらはさらに踏み込んだアーティフィシャルライフ(ALife)についての概説書。生命現象の様々な側面をシミュレーションするという研究領域の入門という感じ。プログラミング本ではあるけれど、打ち込んで学ぶというよりも、公開されているソースコードをローカルで実際に動かして、ALの主要な研究領域の入り口をざっと見る一冊か。たとえて言うならプログラミング絵本というところ。pythonの実行環境が必要だが、それさえ問題なければかなり刺激的なプログラムが並んでいる。当然いろいろな応用も考えられそうで、そうしたことを夢想するだけでも楽しい。

と同時に、ここには、生命現象のシミュレーションのどうしようもなく(というか絶対的に)パーシャルな性質というものを改めて突きつけられている気がする。析出され再構成される部分的な動作は、当然ながら部分的なものでしかないわけだが、それが別の部分とどうつながっていくのかといった経路は見えない。そのつなぐ部分というのが、もしかしたら現在ないしそれ以降の検討課題になっているのかもしれない……。そんなことに思いを巡らせてみるのも一興かもしれない。