動物の論理性

Plutarque, Oeuvres Morales: Traite 63, L'intelligence Des Animaux (ollection des universites de France)このところ目を通しているのが、プルタルコスの『モラリア』から第63論考「陸生動物と水生動物のいずれがより賢いか」(底本:Plutarque, Oeuvres morales: Traité 63, L’intelligence des animaux (collection des universités de France), trad. par J. Bouffartigue, Les Belles Lettres, 2012)。まだざっと前半のみ。動物と人間とのあいだに明確に線引きをするプラトンやアリストテレス、さらにはストア派などと違って、プルタルコスは動物に不完全ながらある程度の理性・知性の存在を認めている。それを示すため、この対話編では様々な動物の諸行動について言及する。それらを実例として、動物のもつ知性的な面を言い立てていく。

たとえばトラキア人たちが凍った川を渡る際に、キツネを参考にする話が出てくる。キツネは川の近くまで来て、耳をそばだてて、氷の下を水が流れている音がすれば、底まで凍ってはおらず氷は薄いと推論し、歩みを止めるとされる。プルタルコス(というか、対話編の登場人物であるアリストティモス)はここで、「音を出すものは動いている。動いているものは凍っていない。凍っていないものは液状である。液状であるものは抵抗力がない」という弁証がキツネにおいて成立しているのだとみなす。あるいはまた、歩いている犬が岐路にさしかかる際、その犬は選言的(!)に、次のような三段論法を繰り広げるのだ、と。「(追いかけている)獣は、この道、あの道、もう一つの道のいずれかを行った。この道とあの道でないのは確かだ。よってもう一つの道を通ったに違いない」。

このあたり、あまりに言語的な析出に依存した推論形式の記述だという印象はぬぐえない。そうした人間的な言葉に依存した弁証法的な推論が、動物においてどこまで正当なものとして働いてはいるのかはわからないが、動物の判断はもっと瞬時に、いわば短絡的になされている印象もあるわけで……。こうしたステップ・バイ・ステップでの分析的な推論構成は後付けにすぎないこと、そしてそれをもってはじめて「理性的」と評されることには、やはりどこか微妙な違和感がないわけでもない……と。自分でもあまり整理できていないが、動物が体現する論理性は、それだけで大きな問いを投げかけていそうに思える。