古代思想と音楽

音楽と建築夏読書。だいぶ前に読みかけで放置してあったクセナキス『音楽と建築』(高橋悠治訳、河出書房新社、2017)をとりあえず通読。ヤニス・クセナキスといえば、建築家でもあった作曲家。同書はそのクセナキスの論考をまとめた日本版オリジナルの論集。数学への言及や数式が出てくる箇所が多々あり、難解な印象だけれど、そのあたりは多少ともスルーしながら読み進めれば、壮大なビジョンのようなものも浮かび上がってくる(どうせ細かいことは1回通読した程度ではまったくもって不案内にすぎないのだから、そういう大局的なところを楽しもう、というわけ)。というのもクセナキスは、古代音楽についての見識から出発して、ある種の音楽観を刷新しようと努めているからだ。

「メタミュージックに向かって」という論考では、紀元後数世紀までの古代の音楽が「旋法」(それは音階の型にすぎないとされる)ではなくテトラコルドに、そしてある種の「システム」にもとづくものだった、とクセナキスは喝破する。そのことが曇らされているのは、単旋律聖歌をもとにした中世以降の見識のせいなのだ、と。さらにそうした古代の音楽の「入れ子」状の構造がどんなものだったのかの記述を試みる。ここで参照されているのはアリストクセノスの音楽理論だ。それはさらに、ビザンツ音楽において、ピュタゴラス派の計算法と融合して拡張されていく様子をも描き出していく。

「音楽の哲学へ」と題された論考では、古代ギリシア思想の独自の総括のようなことを行っている。イオニアの哲学者たち(アナクシマンドロス、アナクシメネス)が、なにもないところから推論としての宇宙論を創造し、宗教や神秘主義に打ち勝つ道を開いたことを高く評価し、その推論を促した反問の技法が、ピュタゴラス教団の数の思想、さらにはパルメニデスの議論に結実したことを言祝いでいる。万事がなんらかの数であるという考え方と、感覚外の現実が「一つ」であるという究極の存在論は、現代にいたるまで(ときおり後退したりしながらも)手を変え品をかえ受け継がれている、とクセナキスは見る。一方でこの決定論的な地平に、表裏の関係にある純粋偶然が入り込む可能性も見いだされる。エピクロス、ルクレティウスによる「偏り」概念の導入だ。これもまた、パスカル、フェルマー、ベルヌーイなどによる精緻化を経て、「トートロジー的統一とその内部での永続的変奏原理」(p.63)とが織りなす、世界の様相が明らかになっていく。クセナキスはこうした考察をもとに、時間外構造(決定論的構造)と時間内構造(純粋偶然の折り込み)の概念を打ち立て、それをもとに音楽史の流れまでをも再構成しようとする。