見えないものを見るために?

年の瀬だからというわけでもないのだが、未読のままだった約半年分の岩波『世界』にざっと目を通す。とくに最新号の1月号(特集「抵抗の民主主義」)に掲載された山本圭「批判なき時代の民主主義」が心に突き刺さる感じ。この論考はまず、今の時代は、フェアな土壌の上で政治的な批判や対立を示し相互に戦うことを、周到に回避するようになっていると指摘する、次いでその背景として、様々な社会的分断を見せないようにしたり、中和したりするような、各種の装置や制度の多用を指摘してみせる。ときにそれは天皇制のイデオロギー(各種の礼祭や祝賀パレードは、政治的立場や利害を超えてコミットさせるものだとされる)だったり、選挙(それは分断を見せつける仕組みだったりする)以外で民主主義を考え直そうという機運だったりする。

そうして批判や対立が弱まり、否定的なものは隅に押しやられはするけれども、ときにそれは暗部として回帰することがある。たとえば右派左派双方のポピュリズムなどもその典型だ。論考の著者は次いで、相互の闘技的な敬意にもとづく対立や批判をアゴニズムと呼び、一方で対立する相手を単純に敵と見なして全否定したり、あるいは悪魔的存在と見なしたりする動きを、アンタゴニズムと呼んで区別する。そしてこの後者には、実は自己のアイデンティティにとって、矛盾する二つの役割を果たすのだ、と。つまりアイデンティティの十全な構成をブロックすると同時に、アイデンティティを作り出すそもそもの構成的外部でもあるという(エルネスト・ラクラウの議論)。ポピュリズムを、その粗暴さゆえに十全に認められなくても、追い払うことがかなわないのは、そうしたアンタゴニズム的な二つの役割がそこにも見いだせるからだ、と著者。そうしたアンタゴニズムを民主主義にとっての課題として受け止めることが重要だ、と説いている。

それにしても日本の場合には、そうしたアンタゴニズムの言説にもなにがしかの文化的特徴があるのではないかしら、なんてことも思ったりするのだが、ちょうど積読から引っ張り出してきた本がそういうものを分析しようとしていて興味深い。内藤千珠子『愛国的無関心――「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社、2015)がそれ。基本的には近代の小説のテキストを分析しつつ、マイノリティを排除する言葉の力学のようなものをあぶりだそうとするもの。愛国的な運動に身を投じる人々があえて目にしようとしない、無関心を装う対象とする「敵」。そこで排除されるのは要するに<絶対化された>他者だが、この無関心の回路を担うのは、実はなにげない文化的装置としての伏字だったりするのではないか、と著者は問う。伏字には、検閲的に明示することを避けつつも、伏せている字は誰の眼にもあきらかだという構造がある。それが「あるはずのものを、ないものとして扱う感性を作り出す」(p.44)のではないか、と。

このこと自体、歴史的に、1930年代のナショナリズムとマルクス主義との対立にまで遡ることができる、と著者は言う。当時のナショナリズム(日本主義)は、スキャンダルを求める当時の大衆の要求に応えるかたちで、もともと関係のないマルクス主義と近接の関係に置かれ、なんらかの関係性をまとい、物語化されていったと看破する。

そのプロセスは、ナショナリズムとマルクス主義のそれぞれのファクター(たとえばナショナリズム側から「民族」や「人種」などのキーターム)の物語が、相互に相手を「敵」として「内在化」してしまうのだ、という。あとはもはや通俗的な紋切り型として、相手への無関心はそのままに、対立の構図は反復され定着していくだけとなる……ときにはまやかしにすぎない逆転の構図や、熱狂的な攻撃すら伴って。「日本的感性」とされる伏字の構図は、とても根深いものであることに改めて気づかされる。