ホワイトヘッド再訪

何年かぶりに、ホワイトヘッド『過程と実在・上巻』(平林康之訳、みすず書房、1981)を読み直してみた。おのずと知れた、「有機体の哲学」を論じた著書の前半だ。この有機体の哲学、何度読んでも難解なのだけれど、一つには著者が用いているやや特殊な言葉づかいが理解を阻んでいるという側面もある。なので、読み進める上でのポイントは次のようになる。まずは要所要所で示される、そうした用語の説明を拾っていく。これだけでもそれなりの理解には到達できるはず……。たとえばこの有機体の哲学という言い方は、おそらく機械論的な哲学の対極にあるということを示しているのだろう、などなど。

おそらく肝要な点は、これが中世哲学以来の質料形相論の伝統に、ある意味とどめを刺した(?)というところかもしれない、と昔読んだときには思ったものだ。形相が結びつく質料には、伝統的に外的な実世界のものと、人間の内的世界のもの(感覚器官における像、つまりスペキエス)とが分けられてきたわけだけれども、この有機体の哲学は、各々のそうした結びつきが実は地続きであること、人間が心に抱く事物の理解というものが、実はすでにしてその事物の(従来的には外的とされた)実世界での成立をたどりなおしているにすぎないこと、あるいはその事物の成立そのものでさえあることを言い募っているように見える。したがってそこに内的・外的の二元論は必要とされず、世界はどこまでいっても全体的・包括的な世界でしかなく、そこには生成というか流転というか、いわば事物が事物として成立し、また変化していく過程しかない、ということになる、と。ある意味それは、モナド的世界観でもある。認識論と存在論が分化しない境地というか。

けれども、そういうふうな理解として読んだ場合、それにしてもその過程が実に静的な印象を与えるのはどういうわけなのだろうか、と思ってしまう。その印象を確認したい、さらにはそうした印象がなぜぬぐえないかを考えたいというのが、今回再読してみた理由の一つなのだけれど、どうもその印象のもとというのは、この哲学が立脚している先人たちの思想にあるように思えてきた。デカルトやカント以上にロックやヒュームが何度も引き合いに出されていたことはなんとなく覚えていたが、とりわけ重要なのはやはりロックだと言えそうだ。ホワイトヘッドが用いる「包握」とか「感受」などの主要コンセプトは、どうやらロックの概念の分析からもたらされていて、その概念や扱い方もロックを踏襲するかのようで、どこか図式的、静的なのではないか、と。

もちろんこの主客二元論を超越したような視座、持続的な過程といった考え方は、とくにベルクソンの哲学、さらにはその先のシモンドンの哲学にも通じるものでもあり、実に興味深いものであることもあらためて確認した。「主観から現象的客観への過程」というカント的な概念分析が、ここでは逆転され、「客体性から主体性への進行」として分析される(p.230)。そのあたりの意味合い、重要性を噛みしめたい。