普遍と個物再び

プルタルコスの『モラリア』第72論文、対話篇の「一般概念について―ーストア派への反論」(ちなみにLes Belles Lettres版で再読中)に、「全体」をめぐるストア派の言説をあげつらう箇所(第30章)がある。この対話篇の登場人物によれば、ストア派の論者たちは、実在しないのに「何かである」と言える事象は多々あり、その最たるものが「全体」である、と述べているという。「無限の空虚で世界の外にあることから全体は物体でも非物体でもない。したがって全体は実在しない。よって全体は働きかけもしないし、働きかけを受けることもなく、場所にすらない。場所にないならば、動・不動のいずれでもない。重さもない」と彼らはいうのだそうだ。するとそこから「物体でないものがその部分に物体を含み、非在のものがその部分に存在を含み、重さのないもののがその部分に重さや軽さをもつものを含む」ことになって、一般概念にこれほど反する観念はほかに思いつかない、とこの登場人物は宣言する。

けれどもこのストア派の側の議論のほうがむしろ面白い気がする。その議論では続けて、全体は「それを超えるものはないので何かの部分ではないし、総体でもない。総体は秩序だったのものの述語となるものだが、全体は秩序だってはいない。全体には何らかの原因があるわけでもないし、何かの原因になるわけでもない」とされる。したがって全体は、通常ならば「無」の述語となるすべての述語を取ることになる、と。この対話篇の登場人物たちは、ストア派は残念だという感じで嘆くのだが、いや、実は残念なのはこの登場人物らのほうではないか、という気がしないでもない。ストア派の言説をより深く読み込んでいけば、かえってそうした非在の概念の分析から、物体の実体性、実在性、あるいは一般概念の存立根拠のようなものも導けるのではないか、と。

そんなことを改めて思うのは、田口茂・西郷甲矢人『<現実>とは何か――数学・哲学から始まる世界像の転換』(筑摩書房、2019)を読んでみたからかもしれない。数学者と哲学者との対話を通じて練り上げられた議論というだけで、すでにして刺激的な一冊。しかもそれが実体などの、存在論的な議論に向かうとなれば、これはもう、良い意味で見過ごすわけにはいかない。そしてなんといっても、同書が企てているのがまさに一般概念・通念の転回だからでもある。

同書が問うているキーとなる問題は次のようなものだ。普遍的なものの認識が成立するには、必ずやまずは特定の個別的なものから出発しなければならない。法則が成立するには必ず個別の事象・現象が必要だ。けれども後者から前者が導かれるプロセスは必ずしも意識されない。その「変換」が成立するためには個別の事象と「同じ」他の事象が見いだされ、「置き換え」の可能性が開かれれなくてはならない。ではそこでいう「同じ」とはどういうことか。置き換えの可能性は何が担保するのか。著者たちは量子論とそこから導かれる統計的法則、そして圏論を引き合いに、置き換えの可能性や同じであると見なす根拠が、実は設定された観察の条件に依存すること、したがって法則は「ある」というよりは都度「作られる」ものであり、それ自体としては不定であることなどを論じている。

そしてまた、条件は法則を支えながらも、法則に書き入れられることはない。しかもいったん法則が成立するとなれば、もとになった個別事例は置き換えうるものとして、それ自体は消去されてしまい、法則はあたかもなんらかの実体概念のように捉えられるようになる。けれども実は不定のものでしかなく、自然はそうしたものの上にあり、また数学という営為も、そのような不定性を突き詰めていく学問なのではないか。そこからさらに同書は、自・他の置き換え可能性から倫理の問題、そして決定論と自由の問題を論じるところにまで突き進んでいく。

ストア派の時代にはなかった道具立てが、現代にはある。そのことを強く噛みしめる。