アリストテレス生物学の射程

アリストテレス 生物学の創造 上メルマガのほうでも少し触れたが、このところ読んでいるのが、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造 上』(森夏樹訳、みすず書房、2019)。まだ上巻のみだけれど、すでにして秀作の印象。生物学者がアリストテレスを丹念に読み込み、『動物誌』や『動物部分論』など一連の動物学的著作を中心に、その「生物学」としての評価を試み、アリストテレスが何を知っていて、何を知りえていなかったのかを腑分けしていこうとする刺激的な一冊だ。

なによりもまず、その手さばきの鮮やかさが目を引く。上巻を章立て順に追っておくと、まずはその生物学的な取り組みの特徴(観察を中心とし、ときに大胆な仮説へと飛躍していく)、その対象の広がり(現物の観察のほか、旅行者からの伝聞なども含まれている)、解剖学界隈での後世(19世紀など)のアリストテレス再評価とその限界、自然学の原理(その機能的な生物学)の諸特徴、生物の分類学的な試みと限界、論理学との関係性、生体構造の分析(『動物部分論』など)、霊魂論の捉え方(機能的総和としての霊魂)、発生論の特徴(目的論との絡み)……。現代的な視座ももちろん取り入れながら、一方的に限界を言い募るのではなく、当時の自然学的な文脈を様々な側面から浮かび上がらせようとしている。そうした点で好感度は高いが、一方で多少一面的な評価もなくはない印象でもある。

個人的に霊魂論のあたりは面白く読んだ。アリストテレスの生物学的な著作を中心に捉えるならば、それはまずもって栄養摂取の霊魂(植物的魂)として記され、栄養摂取のメカニズムを組織し支配する司令塔のようなもの(心臓とされる)として考察できる。したがってそれは、はるか後世の生気論のような、身体と完全に分離したものではないように見えたりもするだろう。けれどもアリストテレスの霊魂論はそこにのみとどまりはしないし、その基本的スタンスは自然学以外のものも含めた様々な著作からすると、曖昧なまま宙づりになっているかのようだ。魂は身体の中にはないとも言えるし、身体全体に広まっていると言ってもよい。心身の中間領域的な部分は、不問のままに留め置かれる。たとえば感覚的魂においては、外部刺激を受けて感覚器官に生じる心的表象(ファンタスマ)が問題になるわけだけれど、著者も指摘するように、アリストテレスにはファンタスマの機能的・機械論的な説明はない。生理機能の説明はあっても、その先の肝心なファンタシアの内実の説明については、アリストテレスは言いよどんでしまわざるをえない。例として臭いについて挙げられた一例を再録しておくなら、「悪臭を放つものが空気に触れるおかげで、空気が臭覚に対して感じられるほどのものになるのであり、臭いを嗅ぐことは、それによって作られたものの観測ということになるのだろうか?」(p.248)という具合だ。さらにまた、著者は同書において、理性的魂の諸相を事実上取り上げていない。おそらくはそれが、同書が扱う自然学的な領域を超え出てしまうからなのだろう。