環境と主体

今年は晩夏のころに、拙訳でエマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学』(勁草書房、2019)を刊行できたが、これはなかなか感慨深い体験でもあった。この本のキーワードはなんといっても「浸り」(immersion)。20年ほど前に、フィリップ・ケオー『ヴァーチャルという思想』(NTT出版)を訳出したが、そのときのキーワードが「没入」(plongée)で、個人的にはなんだか20年をかけて没入から浸りへと周回したような感じだ。その間、個人的に周辺環境と主体とのインタラクションというテーマは、通底音(ドローン)のように響いていた気もするが、あまり前面に上ってはこなかったようにも思う。ここから先は、もう少し私的にそうしたテーマを前景化させていけないかな、とも考えているところ。環境と主体双方の位置づけや、その脆弱性(あるいは強靭さ?)の問題などがとても気になるこの頃だ。この後者は、上のコッチャ本が触れていない問題でもある。……こういう感慨にふけるのも、そろそろ年末だからというのが大きいのかもしれないが(笑)。

それに関連するが、積読本から河野哲也『境界の現象学』(筑摩書房、2014)を眺めてみた。基本的に哲学エッセイ本だが、指針やヒントが得られることも多く、けっして侮れない。とくに後半。たとえば第6章「都市とウィルダネス」では、都市の中心部というものが、「岩だらけの山頂、砂漠のなかに」通じている、という日野啓三のエッセイの一節をもとに、ウィルダネス(荒地)の思考を考察している。住処形態をヘスティア的なもの(定住的・境界的)とヘルメス的なもの(無定形的・移動的)とに区分し、両者の対立を軸に論は展開していく。前者が私的空間から公的空間にまで、ジェンダー的な差異をも絡み取りながら延長されていく様を批判的に描き(7章)、実は前者の成立しうるのは後者あってこそなのではないか、という構図が示される。

その意味では、身体・家・国家という境界をベースにした比喩も、自動的に同心円的に広がっていくようなものではまったくないのではないか、とされる。国家などはときに身体に比されることもあった(『リヴァイアサン』など)けれど、どこにも類似点などはない、と。そしてまた、都市とウィルダネスとをつなぐものは、境界がないという類似点にあるのではないか、と。そして最後の章では、そもそも囲い込みの必要性はあるのか、と問いかける。地球規模で見た場合、生き延びるための条件というのは、囲い込みに限定されない力動的な適応力にあるのではないか、というのだ。そうした適応力を、同著者は「レジリエンス(弾性)」というキーワードに落とし込んでみせる。

かつてのようなノマドを理想化するような思考にはまらず、境界と、その囲みを成立させるものとの動的な構造を可視化することが、新たな視座になりうるかもしれない。そこが、同書がとりわけ響いてくるところだ。