言葉からのアプローチ

前に『アナロギアの考案』(”Inventio analogiae”)が面白かったジャン=フランソワ・クルティーヌを、久々に読んでいるところ。『存在の諸カテゴリー』(J.-F. Courtine, “Les catégories de l’être – Études de philosophie ancienne et médiéval”, PUF, 2003)。『アナロギア……』に先立つ論集。ここでもまた、οὐσίαの意味論的変遷とか、「存在のアナロギア」が導かれる前提条件としてのネオプラトニストの注解とか、言語的アプローチから哲学的な意味を引き出すという方法論が見事に冴えわたる。ウーシアに関してはボエティウスの翻訳と、さらに先立つクィンティリアヌス、アウグスティヌスの場合の意味の変遷が問題になっているし、「存在のアナロギア」説では、アップストリームに位置する初期注解者たちの偏向が問われる。アフロディシアスのアレクサンドロスやアスクレピオスらは、συνώνυμοςとὁμώνυμοςの関係性の解釈の中で、プラトンを批判するというアリストテレスの意向を文字通り反転させてしまうのだという。このあたり、なかなかに味わい深い分析が展開する。

で、とりわけ興味深いのが、アリストテレスのカテゴリー論の受容でのヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの立ち位置。10のカテゴリーに対して神はどこに位置づけられるのかという中世的な問題に、エウリゲナは否定神学的な立場からむしろそのカテゴリーの組み替えを提唱し、しかもそれに際して、これまた長い思想的伝統のある「場所と時間」の特異性をはっきりと打ち出していくのだという。そういえば、先々月記したヴァジリウ『透明なるもの』でも、エリウゲナがディオニュシオス・アレオパギテスをベースに、真にアリストテレス思想的な知覚論を展開していたとされていたのだっけね。うーん、エリウゲナは気になるなあ。ちゃんと読んでみようか。