断章29

(Lamberz : 31; Moser=Creuzer : 31)

Ὁ θεὸς πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ, καὶ ὁ νοῦς πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ, καὶ ἡ ψυχὴ πανταχοῦ ὅτι οὐδαμοῦ. ἀλλ᾿ ὁ θεὸς μὲν πανταχοῦ καὶ οὐδαμοῦ τῶν μετ᾿ αὐτὸν πάντων – αὐτοῦ δὲ ἐστι μόνον ὡς ἔστι τε καὶ ἐθέλει -, νοῦς δὲ ἐν μὲν θεῷ, πανταχοῦ δὲ καὶ οὐδαμοῦ τῶν μετ᾿ αὐτόν· καὶ ψυχὴ ἐν νῷ τε καὶ θεῷ, πανταχοῦ δὲ καὶ οὐδαμοῦ ἐν σώματι· σῶμα δὲ καὶ ἐν ψυχῇ καὶ ἐν νῷ καὶ ἐν θεῷ. καὶ ὡς πάντα τὰ ὄντα καὶ μὴ ὄντα ἐκ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν θεῷ καὶ οὐκ αὐτὸς τὰ ὄντα καὶ μὴ ὄντα καὶ ἐν αὐτοις – εἰ γὰρ μόνον ἦν πανταχοῦ, αὐτὸς ἂν ἦν τὰ πάντα καὶ ἐν πᾶσιν· ἐπεὶ δὲ καὶ οὐδαμοῦ, τὰ πάντα γίνεται δι᾿ αὐτὸν καὶ ἐν αὐτῷ, ὅτι πανταχοῦ ἐκεῖνος, ἕτερα δὲ αὐτοῦ, ὅτι αὐτὸς οὐδαμοῦ -, οὕτω καὶ νοῦς πανταχοῦ ὤν καί οὐδαμοῦ αἴτιος ψυχῶν καὶ τῶν μετ᾿ αὐτάς καὶ οὐκ αὐτὸς ψυχὴ οὔτε τὰ μετὰ ψυχὴν οὐδὲ ἐν τούτοις, ὅτι οὐκ ἦν μόνον πανταχοῦ τῶν μετ᾿ αὐτόν, ἀλλὰ καὶ οὐδαμοῦ· καὶ ἡ ψυχὴ οὐ σῶμα οὔτε ἐν σώματι, ἀλλ᾿ αἰτία σώματος, ὅτι πανταχοῦ οὖσα τοῦ σώματός ἐστιν οὐδαμοῦ. καὶ ἔστη γε ἡ πρόοδος τοῦ παντὸς εἰς τὸ μήτε πανταχοῦ ἅμα μήτε μηδαμοῦ εἶναι δυνάμενον, ἀλλ᾿ ἀνὰ μέρος ἑκατέρων μετέχον.

神はどこにもないがゆえにいたるところにある。知性(ヌース)もどこにもないがゆえにいたるところにある。魂もどこにもないがゆえにいたるところにある。しかしながら、神はおのれの後に生じたすべてのいたるところにあり、かつどこにもない(実際にそうであり、またそう望むように、それは神にのみ帰属する)。知性は神のもとにあり、他方では神の後に生じたもののいたるところにあり、かつどこにもない。魂は知性のもとにあり、身体のいたるところにあり、かつどこにもない。身体は魂のもとにあり、知性のもとにあり、神のもとにある。存在するものと存在しないもののすべては神から生じ、神のもとにあるが、神そのものは、存在するものでもなく、存在しないものでもなく、それらのもとにあるものでない(いたるところにあるだけだったとしたら、それはすべてであり、すべてのもののもとにあっただろう。しかしながらどこにもないがゆえに、すべてはそれによって、それのもとに生じたのである。なぜならそれは、他のものとは異なるものとしていたるところにあるからである。なんとなれば、それはどこにもないからだ)。同様に知性もいたるところにあり、かつどこにもないものであり、魂やおのれの後に生じたものの原因をなすが、知性そのものは魂でもなく、魂の後に生じたものでもなく、そうしたもののもとにもない。なぜならそれは、おのれの後に生じたもののいたるところにあるのではないばかりか、どこにもないからである。魂もまた、身体ではなく、身体のもとにもない。それは身体の原因をなしている。なぜなら、身体のいたるところにあり、かつどこにもないからである。すべてのものが行き着く先は、いたるところにあると同時ににどこにもないということはできず、ただ両方に順に与ることができるところである。