「操作」の思想

ずいぶん久しぶりにスティグレール本を読む。『偶有からの哲学』(浅井幸夫訳、新評論)。新評論から『象徴の貧困』ほか数冊が出、主著『技術と時間』第一巻の邦訳も出たことは承知していたものの、どうも近年のスティグレール話は少し自分の関心とは違っていたこともあって(特に映画の援用とか)、邦訳にはあまり食指が伸びなかった。でもまあ、この『偶有……』はスティグレールのテーマ系がコンパクトにまとまっているという評判だったので、原書刊行時(2004)にもちょっと気にはなっていた。もとはラジオインタビュー。『技術と時間』第一巻の懐かしい話とかも出てくる(笑)。エピメテウス神話とルロワ=グーランの考古学的な知見から紡ぎ出される、人間の様態としての根本的欠如と、それを補綴するための諸機能の外在化(それが広義の技術ということになる)という問題領域。今読むと、欠如は前提ではなく外在化とともに成立するもので、エピメテウス神話はそのあたりのプロセスを実は隠すもの、という印象もあるのだけれど、ま、それはともかく。むしろスティグレールのそもそもの出発点がプラトン研究というところが興味深い。プラトンの「想起」を支えるものとして、人為的「記憶(ὑπόμνησις)に着目するなんていう解釈は、詳しい話を読んでみたいところ(『技術と時間』4巻がそれに当てられる予定、みたいな話が出ている)。技術論的な面でちょっと気になるのは、外在化や人為的記憶などのタームで語られる話において、操作の概念がさほど直接的には扱われていない印象を受けること。ヒトの世界との技術的な関わりとなれば、どうしても「操作」とはそもそも何かといったことは避けて通れないのでは、なんて。スティグレールが批判する「ハイパーインダストリアル」な社会も、過度の操作、操作対象の過度の拡大、操作の質的変貌などから見直せるような気もしたり……。

個人的な最近の関心から言うと、中世の魔術的思考なども、一方では普遍的で(「野生の思考」というか、ヒトがいつもやってきた側面をもつという意味で)、かつ他方ではかなり特殊な(時代的・文化的な文脈に依存したという意味で)「操作」の一様態と見ることもできる。そのあたりの関心から少しづつ異教的世界へのアプローチもしかけていきたいところだ。

「「操作」の思想」への2件のフィードバック

  1. > 「操作」の一様態と見ることもできる

    古典的には Yates にしろ,最近では Zambelli にしろ,彼らが自然魔術の核心だと考えたのは,仰るように,自然の事物の「操作」を実行するアートの問題だったと思います.ただ,自然の事物が人間によって「操作できる」というからには,自然の事物それ自体が「操作されうる」ものとして想定されていなければならないので,ではそのような自然観はどのようにして作り上げられたのか?というのが,一応私自身関心があるところです.

  2. ピカトリクスなどを読んでいると、「術を使うには自然の隠された原理を知らなくてはならん」みたいなことを言って、いきなり天空の話、月の宮の話とかに行きますね。確かにそういう自然学の体系が前提としてあって、そこから操作できるものが析出されてくる、みたいな感じに読めます。でも一方でその体系自体も、操作対象の切り出しとか、操作の志向性とかと密接に関係して成立しているような気もします……(?)。うーん、悩ましいところですが。

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