音楽史の書き換え……

就寝前読書から。石井宏『反音楽史』(新潮社、2004)を読了。18世紀から19世紀を中心に、音楽史のいわゆるビッグネームがいかに「ドイツ史観」に染まったものにすぎないかを示し、同時代的な実像はどうだったのかを切々と説いた一冊。西欧では長らく「音楽の本場はイタリア」とされていたのに、ドイツの音楽史家たちがその事実を黙殺・抹殺してきた流れがあるという。その礎を築いたのは、ロマン派系のドイツ人たちで、たとえばシューマンたちはロッシーニとかをかなり低く評価していた。ソナタ形式なども、本来はイタリアで成立したもの(オペラのアリア形式を器楽に取り込んだ)というが、いつの間にかそれがドイツ人の発明として「簒奪」されてしまうという。そんなわけで、たとえばヴィヴァルディが再発見されたのは20世紀になってからにすぎず、しかもそれをなしたのはレコード会社だったという。18世紀当時、大バッハが無名だったという話は有名だけれど、一方で同時代的に著名人となったのはバッハの後妻の末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハなのだそうで、イタリア留学を果たし(ドイツの音楽家が世に出るためにはイタリアで箔を付けないといけなかったという)、ロンドンで名声を得ているという。今年がメモリアルイヤーだったヘンデルも、J.C.バッハに先んじて同じくイタリア留学を果たし、同じくロンドンで出世する。やはりメモリアルイヤーのハイドンは、そうした留学経験がなく、ハンガリー貴族のもとで50年あまりを過ごし、やっとのことで国際的評価を得る。けれどもそこに大量に寄せられた注文は、音楽会用序曲(シンフォニー:会場のざわめきを鎮めるためのもの)と弦楽四重奏曲(結局はBGM)にすぎなかった……などなど。

音楽史もまた様々なイデオロギー的影響を受けざるを得なかった、という話なわけだけれど、そうしたものとは別筋の歴史も徐々に書かれてきつつある感触もあり、同書などはそうした様々な知見をふんだんに取り込んでいる一冊ということになるのだろう。翻ってみれば、音楽史にかぎらず、中世史とか中世思想史、あるいはルネサンスや近世などについても、従来の「正史」の偏りや間隙などはこれからもやはり大いに問い直されていくのだろうなあと思う。いろいろと楽しみは尽きそうにない(笑)。