「スアレスと形而上学の体系」 2

アヴィセンナによる(と著者は言う)哲学者にとっての神学と、聖なる教義としての神学の区別を、別の形で受け継いでいるのがトマス・アクィナス。というわけでクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』の第1部2章、3章はトマスが主役。基本的にトマスは、抽象性(非物質性)の高い対象を扱うほどその学問は高度なものになるという考え方のもと、形而上学を「共通に(一般に)存在するもの(ens commune)」を扱う学問として位置づけている。その際の「共通」を「述語によるもの」と「因果関係によるもの」とに分けて考えることで、神的なものの学知は、「われわれにとっての」学知と「それ自体での」学知に区別されるわけだ。で、ここで両者の関係が大いに注目される。アリストテレス的には、知性の自然な光から発する学問(幾何学や算術)と、それらの学問によって照らされるがゆえに派生的に生じる学問(光学や音楽)があり、後者は前者に依存する。とするなら、一見「われわれにとっての神学」は「それ自体としての神学」に依存するかのように見える。ところが対象が神であることで、その関係性は大きく変わってしまうのだ。「われわれにとっての神学」というその副次的に見える学知は、神という対象によって照らされるものであるがゆえに(とトマスは考える)、それは比類なき最高の学問となってしまう。このいきなりの逆転によって、哲学としての神学(われわれにとっての神学)は屹立する。そしてまさにこのことから、「一般に存在するもの」を対象とする存在論、存在神学の成立が可能になる……。

要するに著者によると、トマスの貢献というのは、神学(そのものとしての)との明確な区別を通じて、ある意味逆説的に形而上学の至高性を高めた、ということになるらしい。アリストテレスは、神的事象へのアプローチを賢慮と学知という二重性で規定しようとしていたということだけれど、トマスはそれを修正し完成させたのだ、というわけだ。この、アリストテレスの企図の修正者としてのトマスという評価は、意外に検討されていないと著者は述べている。