「無神論」

うーむ、ちょっと油断をしたら風邪を引いてしまった。というわけで巣ごもり状態。そんな中、竹下節子『無神論』(中央公論新社、2010)をパラパラとめくる。同著者の本は中公文庫の『ローマ法王』以来だから、結構久しぶり。今回の著書は、西洋ヨーロッパを貫いてきた宗教史の裏側を、「無神論」と括ることのできる流れ(やや乱暴な気もしないでもないけれど)が様々に形を変えながら息づいてきた、ということを論じたもの。「無神論の歴史」と題された前半は、なんだか教科書的な記述が続く感じで今一つノレずじまい(風邪だからかしら)。もちろん個別のエピソードなどはいろいろ面白いのだけれど、まとめの記述は時に消化不良を起こしそうだったり、脱力させられたり……という感じも。たとえば、「ユダヤ=キリスト教の登場自体が、古代にはなかった新しい無神論を内包していた」なんて記述は、一見面白い見方なのだけれど、わずか数ページで駆け抜け放言していいようなものなのかしら、とも思う。あるいは中世の記述で、フランシスコ派を「神秘主義」だから「文系」、ドミニコ会を「理性主義」だから「理系」と分類するあたりはちょっと力が抜ける(苦笑)。それを言うなら、フランシスコ派のほうが自然学的な関心も高く(光学論とかね)、よっぽど理系的なのでは?なんて。

でも、いくつかのエッセイから成る後半は俄然興味深い。とくに、イグナチオ・デ・ロヨラを論じたロラン・バルトの論から、バルトの宗教に関する微妙なスタンスを浮かび上がらせる小論はすばらしい。フランス在住の著者ならではのコラムなどもあって、この後半だけ膨らませて一冊にしてもよかったのではなんて思えるほど。