アルベルトゥス論とか

金森修編『エピステモロジーの現在』(慶應義塾大学出版会、2008)をぱらぱらと。エピステモロジーというと主にフランス系の科学哲学・認識論のことだけれど、これは国内のその分野(といってもかなり広いけれど)の若手研究者を中心とした論文集。デカルト、クールノー(19世紀の確率論者)、カヴァイエス(20世紀の数学史家)、ベルクソン、フランソワ・ダゴニェ(これは金森氏ならでは)などが取り上げられるかと思うと(第一部)、第二部ではフランスの心理学成立史、現代的な生命認識論、中世のアリストテレス主義の自然哲学、19世紀の地質学の誕生などの論考が続く。うーん、壮観だ。

とりあえず個人的に食指をそそられるのは、なんといっても第二部の中世もの。高橋厚「自然の作品は知性の作品である」は、アルベルトゥス・マグヌスの「形成力」思想をまとめたなかなか贅沢な内容の論考。個人的にもアルベルトゥスには惹かれるものがあるだけに、こういう堅実な研究の登場は嬉しいところ。内容は、アルベルトゥスの『鉱物論』や『動物論』から無機物・有機物をつらぬく一貫した同じ生成原理が読み取れ、それがアリストテレスのプラトン主義的解釈から導出されるものだということを、テキストに即して論証しようというもの。個人的にはやはりナルディ的解釈とか思い出してしまう。そちらでは確か、天の第一動者(というか神ですね)は鉱物の生成に対して二度介入する形を取り、一度目で形相の胚芽を質料に注ぎ込み、可能態として内部に宿る形相の胚芽が本来の形相に対して決定的に欠損が刻印されるため、それを現実態にするには天の力(というか動者としての知性の力?これまた神?)の第二の介入が必要になる、という図式だった(生物の魂においても同じ図式が適用されていたようだったけれど、細部は微妙に異なっていたような気もする。アルベルトゥスはある時期、能動知性が魂に個別的に内在するみたいな話をしていて、能動知性と天の力とで少し話がぶれていたような印象も……)。で、その図式でみると、上の論文の「形成力」も、二つのどちらの介入に位置するものなのかが微妙にぶれるような気も……。でもこれは、解釈の格子をどう取るかの問題かしらね。いや〜、それにしても刺激も受けたことだし、個人的にも未読テキストが山のようにあるアルベルトゥス、また改めて読んでいきたいと思う。