今道中世哲学本から – アウグスティヌス

今道本でのアウグスティヌスへのアプローチは、まずは自由意志と恩寵とのアポリア問題から始まっている。エゼキエル書の一節にある「新しき魂をさずける」「新しい魂を起こせ」という文言の相反性が突きつける問題だ。予定説か選択かという問いが想起されるけれども(これがヘブライ語の完了・未完了の転換に重なるというアガンベン的な考え方にも惹かれるものがあるのだが)、著者はこれをアウグスティヌスは「恩寵の側からの自由意志の包摂」によって解こうとしていると見る。なるほど、すると超越者は「包越者」となり、存在の類似(著者が言うように、これは繋辞と存在指示動詞が言語上同一の形だという事情が背景にある)を断ち切って絶対的な差異性を担保することになる。超越者はあくまで外部から来るのであって、はじめから内なるものとしてあるのではない、と……。

この後、超越者への接近(「考迫」という言葉が使われている)としての「解釈」をめぐる考察が展開する。『告白』の最後の三巻はそれに先立つ巻と断絶しているといった議論があるけれども、著者は認識論的な問いから見返すなら、そんなことは妄言にすぎないと喝破する。著者によれば、視覚傾斜から脱して「祈り」(超越に向けた意識の方向性を措定する営為?)に向かい、さらい視覚によらない新しい思考法としての「解釈」(自己の認識的浄化の途?)に繋げるという意味で、それは一貫したプログラムなのだという。『告白』の末尾では聖書の記述を振り返るわけだけれど、視覚を脱したロゴスへの接近・肉迫というプログラムにおいては、その言語の典型としての聖書が解釈されるのはごく当然だというわけだ。うーむ、これは深い議論だ。個人的には、その前段階として扱われている「祈り」の現象論的な掘り下げも可能ではという気もする……。