法哲学の根っこの方へ

ルイ・サラ=モランスといえば、個人的には以前読んだ『異端審問の手引き』の仏訳者。博論がライムンドゥス・ルルスの研究だったという話も聞いていたのだけれど、あまりマークしていなかった。で、少し前に邦訳が出たと聞いていた『ソドム−−法哲学への銘』(馬場智一ほか訳、月曜社)をつい数日前に読み始めたところ。まだ全体の3分の2くらいか。読む前、きっとかっちりとした論考だろうと想定していたため、最初は見事に面食らう。ほとんど詩といってよいような自由奔放な比喩・連想で綴られる文章。「現代思想」系に慣れていないと閉口間違いなしというふうなのだが、でもこのノリに乗っかってしまうと読書のある種の快楽を味わうことができる(笑)。ロラン・バルトっぽく言うならテキストの享楽。ま、広く推奨しうる本ではないかもしれないけれどね。闊達な語りから浮かび上がってくるのは、「法」というものの基盤が実は空間的な囲い込みにあることのほか、一方でそれが全体性として君臨し、(それを神に譬えるならば)司祭役によってその支配は幾重にも強化され、それが語りとして歴史をなしている、といった話。法のそうした基盤というか根っこの部分を掘り下げることが、サラ=モランスのねらいということになる……のかしら(?)。ルルスや異端審問への言及もいたるところに出てきて、そのあたりも興味深い。

個人的には、学術論文などのかっちりした論理構成の明晰な文章もいいけれど、たまにはこういう組んずほぐれつする詩のような曖昧でおぼろな文章もいい。でも、だんだんと後者のようなテキストは出版されなくなってきているのが残念(こういうのが盛んだったフランスでも、日本でも)。まあ、売れないだろうし、需要も受容も今一つというところなのだろうけれど、たとえば同書で扱っているような法という現象の根源をめぐって思考を重ねていくような場合には、そもそも通常の論証には馴染まないかもしれず(本当にそうかどうかはさしあたりわからないけれど)、こうした詩的言語を駆使した、いわば考察の追体験のようなものが意外に読む側に響いてくるような気もする。そういうのがなくなっていくというのはちょっと寂しいかもなあ、なんてことを思う。