詩的文章に身を寄せること

先日挙げたサラ=モランスの『ソドム』もそうだけれど、これまたとても詩的な文で綴られた一冊。南原実『極性と超越−−ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』(新思索社、2007)。うーむ、こういうのはいったん手に取り始めるとなにやら続くなあ(笑)。これもほぼ書名だけに惹かれて手にした一冊(笑)。この書もどこか読み手を寄せ付けず、議論を取り出すのも容易ではない極北の一冊(かな?)。上の『ソドム』とどこか同じような空気を感じさせる。でも「エセー」って本来は(もとの意味に留意するならということ)こういうものかもなあ、なんてことも思う。こちらは東西の垣根までも自由奔放に往還しつつ、ベーメ(17世紀初頭のドイツの神秘主義者っすね)の思想の根底に接近しようとする試みらしい。ベーメのことをあまりよく知らないのでナンだけれども。ベーメについて何か知識が増えるというのではなく、むしろテキストを追うことでなにかが意識下に訴えかけてこないか探る、という感じの読書。あるいは、読んで理解するというよりも、テキストの手触りを味わいつつ表層を滑っていき、うまくいけば裏側にまで滑り込んでいくかもしれない(?)というような読書。まさに詩を読むという感触ですね、これは。個人的にとりわけ訴えてくる部分は、リズミカルな文章で綴られていく錬金術がらみの記述か。その手触り、なかなかよい。もしかするとベーメの、あるいは大もとの錬金術方面の思考の襞、意識下みたいなものが、著者の筆そのものにも闖入してきているのかもしれないなどとふと思ったり。うーむ、こちらも安っぽいながら詩的な思考形態に引きずり込まれそうかも?(苦笑)。そういうのって伝染するのかしら、なんて。