デイヴィドソン

ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』(津留竜馬訳、春秋社)を読む。やや晦渋なところはあるとはいえ、これも滅法面白い(笑)。基本的は問題は、命題の真偽はどこでどう決まるのかというもの。デイヴィドソンは分析哲学系を中心に様々な先行研究を吟味・批判しながら、漸進的に自説へと突き進んでいく。自説へといたる前段階の各論の吟味が、複雑ながらとても魅惑的に見えるから不思議だ。軽快なメスさばきというところ。前半が真理の問題、後半が述定の問題。前半ではとくにタルスキによる真理定義(「引用符解除的」と称されるもので、論理命題が文のトークン(具体物)といかにして同値になるかという話)の批判が縦糸となっていて、最終的には文のトークンを産出する言語使用者との結びつきを再考するというアプローチへと至る。話し手と聞き手(解釈者)が、最低限は字義通りの意味を共有するとの前提から、そこで交わされる文の命題内容も、両者にとって共通の何かによって決定されるはずだということになり、ではそれは何かという問題が後半に持ち越される。

で、後半では、今度はプラトンやアリストテレスによる述定問題(文において命題がどう統一されるのかという問題)の発見をさらってみせ、そこから近現代の論者(とくにラッセルやストローソン)の名詞と述語をめぐる数々の議論を振り返り、さながらオッカムの剃刀を駆使しまくって、不要な項の設定などをなぎ倒していき、しまいには「述語が言語外の実在と個別の関係をもつことはない」という、傍目にはドキっとするような議論へとたどり着く。近年の分析哲学では述語の範疇が大きく拡張されているという話なので、この厳密に唯名論的な立場はなにやら甘く危険な香りがする(笑)けれど、それはともかく、述語(動詞)をある種の純粋な操作子に見立てると文としての意味の把握が楽、みたいな実感は外国語学習者ならたぶん一度ならず感じることだと思うので、案外これも「普通の感覚」の敷衍なのかもしれない、なんてことを考えたり……。

で、話を戻すと、真偽を決定するものは述語についての何なのかという問題が残っているのだけれど、述語は(フレーゲ的に)不完全さをもった関数表現的なものとされ、結局は概念を真理値に写像するものだとされる(本物の関数は対象を対象に写像するのに対して:ダメット流)。うーむ、ある意味ミニマリスト的なテーゼ。これの是非はさしあたり置いておくしかないけれど、それにしてもここまでたどり着くまでに同書は実に紆余曲折を孕んでいて、そのあたりが読む楽しみでもあるのだけれど、一番最後にタルスキに戻り、その再評価(形式意味論の手法を自然言語に適用しても、真理は定義できないということを早々と論じていた)が切々と語られる下りはなにやら感動的でもある。