「原因すなわちラティオ」より 1

スアレス研の一環として、ヴァンサン・カローの『原因すなわちラティオ』(Vincent Carraud, “Causa sive ratio – La raison de la cause de Suarez à Leibniz”, PUF, 2002)の最初のあたりを見ていくことにしよう。Causa sive ratioという表現はデカルトの『省察』に出てくるということだけれど、同書は「原因」という概念の近代的理解の成立について、スアレス、デカルト、ライプニッツを通じて検証するという趣旨の思想史本。500ページ超だけれど、とりあえずここではスアレス研ということで、序章と第一章のスアレスについてメモを取っていくことにする(全体の3分の1弱くらい)。というわけでさっそく序章から。序章は「vade mecum」(手引き)となっていて、「原因」概念が古代・中世とどう変遷してきたかを大きな枠でまとめている。とりわけ、なぜスアレス以前を詳しく扱わないのかについての正当化が注目点。なぜかというと、それが同書の問題機制の要の部分に関連するからだ。実際のところ、近代においては作用因が唯一無二の原因として取り上げられるようになったわけだけれど、そこにはほかの原因(アリストテレスのいう四原因のうちのほかの三つ)が後退していく過程が読み込めるということにもなる。そしてまた、近代的な見方のもう一つの特徴は、因果関係が「基礎付け・根拠」から乖離しているということでもある。何かの事象の原因を云々する場合でも、その成立基盤そのものに立ち入るのではなく、要は直前の作用関係だけが問題になる。そしてそれを「理解」することこそが、原因を掌握したこととされる。まさしく「原因すなわちラティオ(理解・理由)」だ。

断絶の第一点は古代のアリストテレスにある、という。なぜならそこで、「起源」に対する「原因」の優位が確立されることになるからだ。それ以前のたとえばプラトン『ティマイオス』では、基本的に問題とされるのは「起源」でしかない。「原因」の議論を持ち込んだアリストテレスは、それをめぐる諸々の議論(ストア派など)をもたらし、やがてそれがetiologie(アイティオロギア:原因論)を成立させる。

一方で、七〇人訳聖書などにあるという「何も原因なしにはもたらされない」といった言い回しも、実情としては、何事にも「起源」が必要だということを述べた成句にすぎないとされる。初期教父たちはその場合の「原因」を「起源」の同義に解釈し、上の『ティマイオス』での記述と重ね合わせる。原因とはすなわち「産出するもの」「先行するもの」であり、それは「ラティオ」をともなっているものと解釈される(カルキディウス訳の『ティマイオス』)。

ここで再びステップバック。「何も無からは生まれない」「何も無には帰されない」という成句は古代の原子論の遺産かもしれないという。ペルシウス(一世紀)経由でルクレティウスに、さらにルクレティウス経由でエピクロスやデモクリトスにまで遡及できるらしい。で、その成句はアリストテレスによっても取り上げられる。アリストテレスは「非在からは存在は生まれない」とし、パルメニデス流の「万物は生成も消滅もせず、存在・非在のいずれかから必然的に出来する」といった考え方に反論を加えるのだけれど、その一方で「非在からの生成があるとすれば、それは偶有的な場合(たとえば何かの存在の欠如など)が考えられる」というようなことも述べている。これはかなり画期的なことで、これにより「存在は存在から生じる(=何も無からは生まれない)」ということが一つの典型例にでしかなくなってしまう。ならば存在は何から生じるのかというと、それはなんらかの「原理」(存在の欠如もそれに含まれる)ということになる。こうして、それまで起源が問題だった地平は、原理・原因が問題とされる場所に転じる。生成の認識もまた、もはや「存在」か「非在」かではなく、その原理についてのラティオが問題となる……。