スコトゥスと三位一体

メルマガのほうではスコトゥスは一段落したけれど、いろいろと面白い側面がありそうなので、ブログの方で継続することにしよう。八木雄二氏がいずれかの著書に書いていたと思うけれど、スコトゥスの思想的理解においては神学的な側面が重要なのだとか。というわけで、まずは手始めに、リチャード・クロスによる「神的実体と三位一体に関するドゥンス・スコトゥス」という論考を眺めてみた(Richard Cross, ‘Duns Scotus on Divine Substance and the Trinity’, Medieval Philosophy and Theology 11, 2003, Cambridge University Press)。さわりだけまとめておくと……。

三位一体論をめぐる議論はもちろん初期教父の頃からあるわけだけれど、西欧ではギリシア教父の教説はあまり伝わらず、結果的にというか、アウグスティヌスの教説が支配的になったという。著者によると、ギリシア教父たち(ニュッサのグレゴリオス以降)が考えていたのは、神の実体は「内在的普遍」であるという考え方だという。神の実体はもとより普遍であって、その同じ一つの普遍が反復的に個別事例をなしたものが位格だという立場。一方のアウグスティヌスは、神の実体は普遍ではないとし、それについて類や種を語ることはできないという立場。位格とは何であるかは曖昧で、突き詰めるとただ「何か」があるというふうにしか言えないということに……(うーむ、そうだったかなあ)。で、巡り巡ってスコトゥスは、このギリシア教父らの考え方へと接近し、それをより精細にしたような議論を展開するのだという。とはいえ、別にスコトゥスがギリシア教父のテキストを読んでいたわけではないらしい……。

スコトゥスは「普遍」について、範疇の項目(被造物一般のこと)の場合と神の本質の場合とで別バージョンの理論を用意しているという。たとえば「人間」という概念を考えてみればよいけれど、前者の被造物の場合、数的に一とはならず(概念的には十全ではなく、具体物を見れば数的に多)、心的対象・思考対象として偶有的に変成されることで、はじめて共有可能&属性として適用可能になる。これはまあ、スコトゥス哲学についてよく言われるところ。ところが後者の場合については、スコトゥスは「内在的普遍」を認めているのだという。神の本質・本性はもとより数的に一つで、その体現(exemplified)となるのが位格とされる。位格そのものは実体でも個でもないと規定され(実体や個をなすのは神の本性のほう)、かくして「神」という名辞が示す対象も、神の本性のこともあれば、位格が体現する神のこともあるとされる。こうした構図を採用することで、三位一体にまつわる多神化の危険を回避できるほか、受肉という難問すらクリアできるようになるというのだが……(以下詳細は省略)。うーん、どこか悩ましい感じの(?)この読みの正当性、スコトゥスのテキストに実際に当たって検証してみたいところ。