「原因すなわちラティオ」より 7

そもそも原因の定義とは何か。スアレスによれば、「原理」は「原因」よりも広義で、なんらかの形で何かをもたらすものであればなんでもよい。「原因」はというと、他の事物に個別に「作用する・影響する(influere)」ものでなくてはならない。したがって、まず原因をなす事物がなくてはならず、原因をなすという作用それ自体がなくてはならず、その結果生じる関係性がなくてはならない、ということになる。「原因とは、他のものの存在にみずから作用する(他のものの存在をもたらす)原理のことである」。

著者によれば、この「作用・影響」という語を使った時点で、スアレスが作用因に大きな比重を与えていることはすでに伺い知れるという。実際スアレスのこの定義では、質料因などは「厳密には」事物の存在に関わらないので、とりあえず原因から排除されることになる。さらにこの定義では、原因に対する結果は別の存在ということになり、原因は外的なものだということにもなる。まさしくこの外因性という点で、目的因などに対する作用因の優位がほぼ確定されることにもなる……。うーむ、なんだか論点先取りな感じもしないでもないが……。

スアレスにおいては、「原因」という場合、一種の代称として、あるいはその筆頭の位置づけから、「作用因」を意味するのが普通になっているという。さらには、原因の他の区分を排除して「作用因」だけを温存するという意向をはっきりと打ち出してさえいるという(アウグスティヌスやセネカを引きながら)。スアレスはそこからさらに、具体的に「原因」の縮減を図っていくらしい。形相因や質料因はもとより原因の定義に合わないので簡単に撤廃される。問題はやはり目的因なのだけれど、これも基本的には「意志的・潜在的な因」にすぎないとして、実際の作用に際しては作用因と一体になっていなければならないとし、やはり作用因への縮減が可能だ、と……。この最後の部分は、形而上学の考察対象に神をも含めているために、若干すっきりとしない構図にならざるをえない。当然ながらというべきか、目的因(としての神)はまだ完全には駆逐されない……。

全体として著者カローの議論は、スアレスのテキストを様々に引用しながら再編し、螺旋を描きつつ核心に向かうような構成になっている。そんなわけで、同じような説明が繰り返されながら、それでいてその都度別の問題を開いていきながら、当初の目的だった「目的因から作用因への転換」を大筋のところで描き出すという感じになっている。そのため、読む側からすると、議論としては面白いけれど、スアレスのテキストの構成そのものなどについてはよくわからないままになってしまう……。ま、後はきちんとスアレスを読んでくれということかしらね。年明けからはここでもやっていくことにしようか、と。で、カローのこの大部の著書は、さらに引き続き原因の解釈をめぐってデカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツを巡っていくわけだけれど、ま、こちらはひとまずここで了ということにしておこう(笑)。

(↓先日のデューラー展時の西洋美術館のロダン「地獄の門」)

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