トロープ理論再び

間接的に関係するだけなのでと、後回しにしてきた一冊にようやく目を通す。『現代形而上学論文集』(柏端達也ほか訳、勁草書房、2006)。分析哲学方面の重要な論文のいくつかを訳出した、日本オリジナルの一冊。普遍と個別の問題などが取り上げられているので、それなりに面白い。ただ、アリストテレスあたりから受け継がれた機能主義というか、科学的な分解と再構成の手法の行き着く先という、今とてもアクチャルな問題機制との関連で眺めると、正直なところ、これが本当に豊かな哲学的地平を開くのかどうかという点で居心地の悪さを感じたりもする。ま、それはともかく。個人的な関心からすると、とりわけ興味深いのは後半の大きな部分を形作る二つの論考。デイヴィド・ルイスの「普遍者の理論のための新しい仕事」と、ピーター/サイモンズ「個別の衣をまとった個別者たち」だ。

ちょっと乱暴にまとめてしまうと(苦笑)、前者は基本的に、普遍者を想定する代わりにクラス的なものとしての性質を前面に出すことを提唱する。そのために、自然的性質という、モノを指示する上での適格性を備えた性質を仮構している。後者はというと、いわゆるトロープ(個別者の備える性質)理論についての議論。指示できるようなモノをトロープがどのように成立させるかという問題について、従来の「束説」「基体説」の難点を指摘し、両者の折衷案のような形で「核説」を提唱する。トロープが束をなすという一つめの説は、全体を取りまとめる結合に難点があるようで、フッサールのようにトロープを部分と見る立場や、オッカムなどに端を発するモード(仕方、様態?)として見る立場など、いずれも偶然的トロープと本質的トロープの区別が考慮されないという。基体説はアリストテレスの第一質料にまで遡れる議論だというけれど、その立場ではトロープと物的実体との関係が説明されずに残ってしまうという。そこで出てくるのが、核をなすトロープとそれに引き連れられる偶然的トロープという考え方だ。これはどうやら素粒子などのイメージを重ね合わせたものらしいことが最後のほうで語られている(ここでいう核が、nucleusなどの名で呼ばれているのは示唆的かもしれない、なんて)。

両論考は、クラス的なものとするか個別の側のものとするかはともかく、いずれも性質をモノの実体を構成するものとして取り上げている。けれどもその「性質」は実体未満かつ理論的な仮構物という側面が強く、ひどく静的な概念だという印象を受ける。ここはやはり、どこか大陸的な感性でもって(?)、ぜひとも動的な概念装置を持ち込んでもらいたい気もしなくはない(笑)……そんなことが可能かどうかはわからないけれど……。ま、それとは別に、原論文は前者が83年、後者が94年ということで、両者間の開きもあるし、今現在の最新鋭の議論はまたずいぶんと違っているのだろうと思う。ちょっとその後がどうなっているのか、改めて少し探ってみたい気もしている。