偶有的属性についての論集:その2(脱力編)

これまた年越し本になる、先に挙げた『実体を補完するもの』からさらなるメモ。メソッド的に正攻法を取る論考も確かにあって、たとえばリチャード・クロスの論考は、トマスの「作用は基体に属する(actiones sunt suppositorum)」というテーゼ(力が外部から付与されるというもの)について、ガンのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスの異論(形相に力が内在する)を対比的にまとめたりしているのだけれど、それよりもひときわ目立つ(悪い意味で?)感じがするのは、とてもアナクロな対比論だったりする。それはつまり、現代的な分析哲学系の議論で論じられる「トロープ」概念との対比で、中世の唯名論を見ようというもの。うーん、これはちょっと面食らうというか。ちなみにトロープというのはドナルド・ウィリアムズが提唱したもので、世界の構成要素となる具体的な属性のこと。

ジョン・マレンボンの論考「アベラールはトロープ理論家だったか」は、アベラールが用いる属性概念をトロープの見地から検証しようというもの。それによると、アベラールの場合、偶有や種差の考え方が現代的な弱く推移可能なトロープと考え方とほぼ等しく、その存在論的カテゴリーは、内的に個体化されている基体と、基体に付随する形でのみ存在しうる、やはり個体化されている形相とに分かれるのではないか、という。だからアベラールはトロープ理論に近いものを考えていた可能性がある、という議論だ。うーん、それはどうかしらねえ……どうやらこれは、トロープ理論で中世を括る懐疑的なアラン・ド・リベラの立場への反論らしいのだが……。

クロード・パナッチョの「オッカムの存在論とトロープの理論」は、上のウィリアムズともまた違うらしいケイス・キャンペルのトロープ論と、オッカム思想の対比とを試みるというものなのだけれど、キャンベルの思想は、基体などというものはなくトロープのみが存在するという極端な立場(トロープ一元論)で、オッカムはというと当然本質的部分と偶有的部分を分ける二元論に立脚していて、この点が大きな違いなのだけれども他の方向性は大体一致しているのだという。これってひどく凡庸な論調……とか思っていたら、最後のほうで、オッカムの立場からの逆照射でトロープ論の問題を再考しようみたいな話になっていて、なんだオッカムはダシに使われただけか、ということがわかり思いっきり脱力する(苦笑)。こういうのを読むと、対比論的な議論のもっていき方の注意点が改めてわかるというもの。ま、それはともかく、トロープ論との対比論が出てきたきっかけはやはりド・リベラにあるらしいので、ちょっとそのあたりも見ておきたいところではある。