明滅論……

時折ぼちぼちと読んでいるジャン=リュック・マリオン。今回は2010年刊行の『見るために信ず』(Jean-Luc Marion, “Le croire pour le voir”, Éditions Parole et Silence – Communio, 2010)という新旧取り混ぜての論集からいくつかを拾い読みしているところ。とくに最後のほうに収録されている「贈与の認識」(La Reconnaissance du Don)などは、おそらく未読の別の著作『与えられていること』(”Étant donné”)とも密接に関連しているものと推測されるけれど、いずれにしても「現れ」そのものの「非現性」といった、マリオンの著作に反復されている主要な問題系がここでもヴィヴィッドに息づいている(笑)。才能とか運とか、いずれも「付与される・与えられている」ものとして人が認識するものは、実はまったく目にできない。そんなときに人は果たして本当にその「与えられたもの」にアクセスできるのか、というのが根本的な問い。贈与は「自動配置」(auto-position)されるといわれ、そのため贈与のプロセス自体は目にできず、贈与の起源であるとかその偶然性、贈り主が見えなくなってしまう。贈与は、それが贈与であった痕跡すら破壊しながら完遂される。けれども、それをあえて遡及していくことがとりもなおさず現象学の課題だというわけだ。最低限の透明性しかない贈与を通じて、贈り主の側からの贈与を認識するというプログラム。見え隠れ、明滅のいわば反転を試みること。それが神学的なパースペクティブに繋がっているあたりは、マリオンおなじみの一種のマニフェスト(それ自体がいわば隠れたものを見せることなのだけれど)という感じがする。「不可視の聖人」(Le saint invisible)という別の論文でも、聖人の聖性そのものが見えないということがどういう構造(神学的?)をなしているのかが論じられる。