存在の一義性……

邦語で読めるスコトゥス本がまた一冊登場。山内志朗『存在の一義性を求めて−−ドゥンス・スコトゥスと13世紀の<知>の革命』(岩波書店、2011)。そのこと自体すでにして大歓迎ではある。かねてから西欧のスコトゥス本や論文が、スコトゥスのテキストそのものの手触り(ときにどこが自説だかわからなくなるほど錯綜したりもする)をいっさい顧みず、かなり鋭く議論を切りとって端的に示すことに、時には舌を巻いたりもするものの、時には大いに違和感を覚えたりもしていたのだけれど、同書はそれとは正反対のことをやろうとしているように見える。つまり、スコトゥスが提示した概念を、その思考の流れみたいなものを絡めてすくい上げようとしているような感触だ。それ自体は誠実な探求ではあるのだけれど、ただ時に今回は逆にちょっとやりすぎの感じもしなくもないかな……と。専門論文的なテーマが設定されているわけではなく、かといってスコトゥス思想の全体像を描く概説書でもなく、著者が何をどう切り出そうとしているのかが今一つはっきりしない局面も、一読しただけでは散見されるように思えるし(実はそのようにして取り上げられるスコトゥスの諸概念が、いずれも相互に有機的に繋がっていることは後からわかる仕掛けになっているのだけれど)、さしあたっての語りが向かう方向すらも一見曖昧だったりする。全体的に、スコトゥスのテキストそのものとはまた別の意味での「もやもやした感じ」を通底音のように残しつつ、関連事項を行きつ戻りつしながら話は少しずつ進んでいく。なにやらこう、じれったい感じ……(笑)。

でも知見としては興味深いものも多く、たとえば一般に言われるフランシスコ会とドミニコ会の対立といった図式に疑義をはさみ、スコトゥスが向ける批判がむしろガンのヘンリクスであってトマスなどではないことや、そのヘンリクスに対しても最初から対立していたわけではなく、ヘンリクスの教義を修正・補完しながら自説を作り上げていったとされること、さらに後の オッカムとの関係も、完全な断絶の相で見ることは誤りであるといったことなどは、連続の相でもって思想史を見るという同書全体を彩るトーンにもなっている。表題でもあり中心テーマでもある存在の一義性も、有限的な存在の人間が無限の存在の認識に至るための方途、神と人間の不均衡を架橋する方途としての面が強調されている。なんだか「安易に断絶を認めないこと、概念装置を文脈から切り離さないこと」と戒めているかのようでもある。「熊野古道を本で読んだり、テレビで見ても仕方がないように、哲学もまた自分で歩んでみること以外には、体験したとはいえません。哲学の理論の結論だけを知って、分かったつもりになるぐらいつまらないことはないのです」(p.126)という著者の、なるほどこれはスコトゥスをめぐる一つの歩き方・歩き様の実況のようなものなのかもしれない。