井筒俊彦伝

夏休み読書の一環もかねて、若松英輔『井筒俊彦ーー叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011)を読む。なんとも読み応え十分の一大評伝。というか、井筒氏が研究対象として取り上げた思想家や同時代的な人脈なども絡めて、その思想の足跡にとどまらず、時代的な空気のようなものまで活写しようという大胆なもの。下手をすると、まるで単なる連想つながりでしかないかのように別の思想家・同時代人などが召還されたりもし、そうした寄り道のようなパッセージがまた良い味を出していてまったく飽きさせない。その上で、全体を貫くしっかりとしたテーマも一本筋が通っている。枝葉に遊ぶ快楽と、幹を追う喜びとをまさに一本の大樹のように味わうことができる。

その一本の筋とは、井筒思想における神秘思想の位置づけだ。神秘家は現実界から絶対的境地へと向かう「向上道」だけではだめで、「むしろ絶対的境地から現実界に戻り、世界を「イデア化」する「向下道」にこそ、神秘家の使命の使命がある」(p.353)という。「叡知界を現実界的に開示する」(同)というその信念もしくは哲学こそが井筒にとっての神秘主義であり、別の箇所によればそれはまさに「宗教的脱構築の異名」(p.289)だったのだという。またさらに、こんな一節もあって興味はつきない。「超越論的世界である想像界で生起したことは、現象となって現実的世界に生起する。逆もときには起こり得る。そこに介入できるのは「祈り」である。私たち人間は、想像界の「現実」を垣間見るために、「超歴史的」次元を通過しなければならない。しかし、そこで私たちは、現実界的概念の解体を迫られるのである」(p.261)。「祈り」の現象学にとって、なんと示唆に満ちた一節であることか!(笑)