ペトルス・ヒスパヌス

この間のダンテ話で出てきたペトルス・ヒスパヌス。天国編に登場する数少ない「医者」ということだけれど、俄然この人物のそちらの側面がもっと知りたくなってきた。というわけで、とりあえずウォルター・J・デイリー「ペトルスの医術−−13世紀の教訓」(Walter J. Daly, Peter’s Medicine–lessons from the 13th century, in Transactions of the American Clinical and Climatological Association, Vol.109, 1998)という論文を見てみる。これも一種の基本文献。13世紀当時の病気は基本的に悪魔の仕業とされていて、ペトルス・ヒスパヌスの医学書にも、たとえば魔女の呪いの解き方などの処方が記されていたりするという。星辰による健康への影響ももちろん取り上げられているそうだ(当たり前か)。と同時に、その医学書の記述の大きな部分は、ヒポクラテスやガレノスなど、古い時代の「権威」の注釈が占めているらしい。ところがその一方で、主著の『眼について(De Oculis)』には、かなり細かくな眼の記述があり、まだ顕微鏡はなく、人体の解剖も許されていなかった頃だけに、その正確さは驚くべきほどだと著者は言う(おそらく12世紀にサレルノで行われていた豚の解剖がもとになっているのだろうという)。このあたりには、もしかするとペトルスの先進性の一端も感じられるのかもしれない。

ペトルスは基本的にエンペドクレスや後期プラトンの思想を継承していて、脳から精気的な光線が放出されるという説を標榜しているというが、一方で知覚論に関してはアウグスティヌスにならい、感覚器官が外部の力を受けはするは、知覚そのものは魂の(能動的な)働きだという考え方を採用しているという(余談だけれど、前のエントリの中畑正志『魂の変容』の第二章によると、ボエティウスもまた、認識そのものは精神みずからの能力にもとづいているという説を取っているという。このあたり、新プラトン主義という括りになるのかしら)。

処方も基本は古来の権威(主にプリニウスやディオスコリデスなど。『医学論』で知られるケルススは1443年に再発見されるまでは断片しか伝わっていないのだという)に則ったものだという。と同時に13世紀は、イノケンティウス3世が魔術治療を禁じ、教会関係者に外科手術を禁じたりするなど、教会側の規制が厳しくなった時期でもあり、ペトルスも外科治療についてはほとんど取り上げていないのだそうだ。ただ、外科治療についての知識はペトルスにもあったらしいと著者は言い、それを無視している真意はわからないとのこと。論考の末尾では、13世紀に医学が発展しなかった理由として、仮説的にそうした権威主義、教会の規制などを挙げているが、いずれにしてもペトルスが少しばかりそうした規制から逸脱していることを、この論考は示唆しているようだ(また、あえて外科治療に手を染めたテオドリクス、ショーリヤックなどの数少ない教会関係者などの書著のほうが、はるかに面白いと著者は記している。なるほど〜)。

↓論考で挙げられているグラスゴー大学の『眼について』写本。現存する様々な版はどれも中身がかなり違っているという。