スピノザとヘンリクス……

スピノザの形而上学。そこで有名と言われるのが属性概念に関する解釈の対立だ。スピノザの場合の属性というのは、実体において本質を構成するものとされるけれど、これをめぐり、属性は概念的にのみ区別されるとするのが主観的解釈で、いやいや属性はそのものとしてあるような区別されるものなのだ、というのが客観的解釈だと言われる(この属性論争については松田克進「スピノザ解釈史における「属性」論争」(PDFはこちらという論考があり、とても参考になる)。で、この大きな対立について、ヘントのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスを参考にして一石を投じよう(笑)という論考を読んでみた。ジェイソン・ウォーラー「スピノザの属性と、ヘントのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスにおける「中間的」区分」というもの(Jason Waller, Spinoza’s Attributes and the “Intermediate” Distinctions of Henry of Ghent and Duns Scotus, Florida Philosophical Review, Vol. IX, issue 1, summer 2009)(PDFはこちら。要するにこれは、スピノザが考える属性が、実は13世紀のスコラ哲学で考察されていた「中間的」区分、すなわち実際の区別よりは「弱い」ものの概念的区別よりは「強い」という中間的なものを設定しようという立場、とくにヘンリクスの立場に意外と近いのではないかという話。そう考えると、主観的解釈・客観的解釈それぞれの不備が解消されるのではないかという次第だ。ま、この話の是非はスピノザの研究者に任せるほかないのだけれど、個人的に面白いのは、論考の論旨そのものからすればズレるけれど、そこで引き合いに出されているスコトゥスとヘンリクスのそれぞれの違いのほうだったりする(笑)。

実在的には同一と見なされるのに知性による理解としては区別されるようなもの、たとえば実体における存在と本質でもよいし、神学的には三位一体でもよいのだけれど、ヘンリクスはそういうものについて「志向的区別」という概念を提示する。これは対象の実在性をベースにした考え方のよう。存在と本質はこれで説明できるというわけか。対するスコトゥスは、そうした志向性の区別を考える上で実在性をベースとするのは不十分だとし、おそらくは三位一体までをも考察しようと「形相的区別」を唱える。区別は形相つまり定義の違いに還元される。スコトゥスは外部世界と概念世界にある種の同形性を見ようとするというわけか。両者の議論の力点の違いが興味深い。

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