スピノザ本

思うところあって、國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房、2011)を少し前から読み囓っているところ。まだ通読するには至っていないのだけれど、一応全体的にはデカルトとの対置を通じてスピノザの「方法論」(普通の意味での方法論ではない)を考察しようというもののよう。真理に達する「方法」を突き詰めていくと、方法のための方法のための方法……というふうに無限後退してしまわざるをえない。方法論はそうした逆説を免れ得ないが、これをスピノザがある逆転によって回避しようとしている。それが語りのメインストリームになっている。その逆転というのは要するに、方法というのは真理を認識するという目的のために編み出されるものではなく、真理を認識する状態として記されるものこそが方法にほかならない、ということに尽きるらしい。規範は活動の後に来るのであって、活動に先だって示されるものではない、というわけだ。方法と方法論はここでは区別されなくなる、と。この場合の真理の認識というのは、精神にほとんど内在する認識能力を高め、最高完全者(神)の観念にまで到達し、そこから諸観念を獲得していくことだという。ではその最高完全者にはどう到達するのか。あらかじめ精神に内在する認識能力は、様々な偶有を排しなくてならないものの、そのためにはまず人間に与えられた条件にすでにある真理性を頼りにしなくてはならない、とされる。とはいえいかにして最高完全者の認識にいたるのかについては、知性改善論』の場合には明記されていない。かくして『エチカ』にその途を探らなくてはならない……。

神へと一端上昇してさらに地上世界に下降するような、こうした真理認識のプロセスなどは、なにやら中世的な議論を彷彿とさせるものがある。となると(悪い癖(?)だが)、つい中世からの系譜的なものが気になってくる。スピノザが用いているという原因論的定義(定義には直近の原因が含まれていなくてはならず、しかも対象のあらゆる特質が帰結するのでなくてはならない、というもの)の前史とか、とても気になってくる。またスピノザとは別に、方法と方法論の分離・析出の歴史とかも改めて気になる。うーん、そうした問題への取っかかりとして、とりあえずはやはりヘンリクスあたりに着目するのがよいのかしら?少し考えてみよう。