中世哲学における「良心」問題

「conscience」と聞くと、仏語だと「意識」と「良心」の両方の意味が残っている一方で、英語ではもっぱら後者の意味になるわけだけど(意識のほうはconsciousとかconsciousnessが一般的か)、ラテン語のconscientiaは両方の意味を保っている。で、史的に見れば、どうやら哲学的な議論が意識の問題と倫理学の問題とに分かれていくのは中世を境にしてのことで、ちょうどラテン語のconscientiaが両義的であるように、「良心」という当時のスタンダードテーマはそれらの狭間に位置していたらしい。このことを取り上げているのが、ティモシー・C・ポッツ『中世哲学における良心』(Timothy C. Potts, Conscience in Medieval Philosophy, Cambridge University Press, 1980)という一冊(とはいえ、全体は未見なのだけれど)。ロンバルドゥスとヒエロニムス、尚書院長フィリップ、ボナヴェントゥラ、アクィナスなどの良心論を、論考と翻訳で紹介するというもの。そのうちロンバルドゥスとヒエロニムスを扱った最初の一章がPDFで公開されている。なにやらラフスケッチのような論考だけれども、ちょっと示唆的な部分もあるので、いちおうメモを(笑)。

良心にまつわる問題はもとは神学的な問題で、ヘブライ思想から欧州に流入してきたとされるものの、そのタームやテーマはヘレニズムを起源としている。conscienceはσυνείδησις(「ともに知る」が原義)を移しかえた語なのだけれど、全体としてこの「良心」の語は、ギリシア語文献よりはキケロやセネカなどラテン語文献に多く見られる。論理学的には、この「ともに知る」は、おのれが何かを知っているということをみずから知るという反省的意識、文法で言うところの再帰化としての意識の在り方と、そこに自然に付加される善悪の判断、あるいは行動規範の適用でもって、いわゆる「良心」という意識の在り方を成立させていると考えられる、と。で、この知と判断との融合という構造を、たとえばペトルス・ロンバルドゥスは、意志はいかにして誤るかといった問題として取り上げている。意志が望むことは、ときに潜在性としては良きことでも、現実化することは悪しきことになりうる。その場合の葛藤こそが、良心の問題を浮上させる。ロマ書7章のパウロの葛藤から、人には二つの意志があるのかとロンバルドゥスは問う……。

ヒエロニムスはエゼキエルの幻視に表れる4つの動物を、プラトン的な葛藤のアレゴリーとして解釈している。プラトンの場合は魂が3つの部分(合理、渇望、情念)から成ると説いたわけだけれども(『国家』からレオンティオスの話)、著者によるとこの魂の3分割構造説は、ヨーロッパの思想史に、一見して考えられる以上の多大な影響を与えてきたという。ヒエロニムスはこれを枠組みとし、そこに良心を加えて4分割構造としている。またヒエロニムスは「人は良心をもたなくなることが可能か」と問い、カインにおいてすら「良心のきらめきは消えていない」と説いたというが、そこで用いられたσυντήρησιςという語(原義は「保持」)を後の人々がσυνείδησιςの転訛と見なし、中世の論者たちにおいては「良心のきらめき(synderesis)」と「良心(conscientia)」とを区別するようになったという。なるほど、この論考の主軸は、言葉の字面と思考内容とは、やはりかくも密接に結びついているのかもしれないという話なのだな。

↓wikipedia(en)から、ドメニコ・ギルランダイオ画「書斎のヒエロニムス」(フィレンツェ、オグニサンティ教会)