中世盛期の経験知問題

トロント大学のピーター・キングのWebサイトは公開論文が充実。これは片っ端から読んでいきたいところ(実際にやるのは大変だけど)。まずはメルマガのほうで見ているオッカムがらみで一本。「経験の二つの概念」(Peter King, Two Conceptions of Experience, Medieval Philosophy and Theology 11, 2003, 203-226)(PDFはこちら)というもの。アリストテレスの「経験」概念を中世盛期の論者たちがどう引き継いだか、というのが扱われている問題。アリストテレスには、経験が感覚的与件として現れそれを知性が普遍として理解するモデルがあり、それがトマスなどのいわゆるスペキエスの議論などを導くわけだけれども、もう一つ、アリストテレスは深めてはいないものの、経験がそのまま知となるようなモデルにも言及していて(たとえば経験を積んだ医者のほうが若手のインターンよりも的確な対応ができるという場合の、その経験知)、こちらもまた、中世の論者たちにある意味引き継がれている、という話。この後者がどう議論されているかが気になるところ。で、著者はまず、サン=ヴィクトルのフーゴーとロバート・キルワードビー、アルベルトゥス・マグヌスとジャン・ド・ジャンダンなどを取り上げる。特にこの、アルベルトゥスとジャンダンのラインが重要なようで、ジャンダンなどは、理性的判断を欠くとされる動物においても、物質世界での経験はそれだけで馴化・習慣化(consuetudo)をもたらすとしている。動物もまた形相的な経験の原理に近いものをもっている、とジャンダンは考えていたのだ、と。

このジャンダンの議論を別の角度から引き継ぐのがドゥンス・スコトゥスというわけで、トマス的なモデルの影響圏にいたジャンダンとは違い、個物重視の立場から、経験についても理論知に対する補佐的な知と捉える余地を与えようとする。さらに、理論知の心的プロセスのモデルを完全にハビトゥス(性向・習慣)の概念で置き換えてしまうのがオッカムなのだが、心的プロセスのブラックボックス化と引き替えに経験知をある種一般化するというのはあまりにラディカルで、同時代の論者たちに必ずしも受け入れられてはいなかったようだ。一つ参考になるのは、オッカムの哲学的な立場の変遷は、ウォルター・チャットン、ウィリアム・クラソーン、ピエール・オレオール、リーディングのジョンなどとのやり取りを通じて、詳細に追うことができるという話。なるほど、これはちょっと見ていかなければ。

↓wikipedia(en)より、オッカム『論理学大全』のケンブリッジ写本に描かれたオッカム