スアレスの真理論(&デカルト)

久々にスアレス研ということで、アミィ・カロフスキ「デカルトの永劫の真理論に対するスアレスの影響」(Amy Karofsky, Suárez’s Influence on Descartes’s Theory of Eternal Truths, Medieval Philosophy and Theology 10 2001)という論考を読む。「人間は動物である」とか「三角形のそれぞれの角度の和は直角二つ分に等しい」といった基本命題(永遠の真理)について、それが何によって担保されるかという問題をめぐるスアレスとデカルトの論を対照してみせるという主旨。面白いのは、これに主知主義と主意主義の対立が重なってくる点だ。スアレスは『形而上学論考』の31章でこの問題を取り上げているという。スアレスは現勢化していない本質は無にすぎない(存在を与える神があってはじめてそれは有となる)と断じるわけだけれど、すると基本命題が本質をめぐるものだとするなら、それはつまるところ無に立脚していることになってしまう。スアレスはこの問題を検討し、基本命題の真理はその命題に含まれる基本属性同士の結びつきによって担保されていると考える(「人間である」という属性は、「動物である」という属性をもとより含んでいる、etc)。そしてその場合、属性やそれが形成する本質は神の存在そのものを表すのだとして、基本命題が神から独立して成立するかのような議論は斥けているのだという。こうして、基本命題においては、存在を与えられていない本質は無でしかないにせよ、それでもなお神の本質(=存在)と同一であるとされ、現実的なものだと見なされるのだ、というわけだ。スアレスは、存在をもたらすという意味での「作用因」は基本命題には必要ない、と考えてもいる……。

この最後の部分を、「神がいなくても基本命題の真理は成立する」と解釈し、これに対してデカルトが批判を加えたとするのが一般的な解釈だったと著者は述べている。けれども、と著者は言う。実はデカルトが批判しているのは、この作用因が不要だとする点なのだ、と。スアレスの説だと、基本命題は神の存在を写し取る(神から本質が流出する)形で必然的に成立する。けれどもそれでは、全能の神の意志が制限されることになってしまう。神の意志は能動的でなければならず、したがって基本命題においても神はその作用因でなくてはならない……。このあたり、13世紀以降のトマス主義とフランシスコ会系との対立が、またも再燃(多少とも形を変えて)している風でもあって、なにやらとても面白いのだが……(笑)。さらにまた、著者によるとデカルトが標榜する主意主義にも根本的な問題があり、異論に対してアウグスティヌス以来の神の「非時間性」の議論を持ち出すなど(でもそれをやると、神の意志の自由が大きく損なわれてしまう)、デカルトの微妙な揺れが見られるという。うーむ、デカルトの逡巡というのも興味深いテーマではある……。

↓wikipedia(en)から、スアレスの肖像画