解剖を支えたものとは

これまたちょっと古く短いながら興味深い論考。イネス・ヴィオレ・オニール「インノケンティウス三世と解剖学の進展」(Ynez Violé O’Neill, Innocent III and the evolution of anatomy, Medical History, 20(4) 1976 pp.429-433)。西欧初の死体解剖の記録は、フランシスコ会の年代記作家フラ・サリンベーネが記したものとされてきた。1286年に北イタリアを襲った疫病(雌鶏と人間が感染?)の原因究明のため、遺体の解剖が行われたという話なのだけれど、同論文では、この病理学的な目的の解剖よりも以前に、実は別のモチベーションで死体解剖が行われていた実例があることを紹介している。それが、僧侶が関わった事件(事故)でその免責の証拠を探るために行われた解剖の事例だ。論文では、マロレオーネの修道院の司祭が泥棒に加えた一撃が致命傷でなかったことを証すために行われた解剖や、シグエンサの司教がミサ中に暴れた教区民を打ち付けたことが、その後の死亡原因ではなかったことを証すために行われた事例が紹介されている。解剖による検証を求めたのはイノケンティウス三世で、その結果をもとに教皇が発した教令により、両者は免責されているという(1209年)。かくして、教皇周辺の教会法学者はその頃までに、医学的な検証を重視するようになったいたというわけだ。で、こうした動きは教会法から徐々に市民法にも浸透していく。その延長線上に、ボローニャ(法学が盛んだった都市だ)で1302年に行われた、記録に残る初の公開解剖が位置づけられるのだという。解剖が広まっていく背景の一つには、こうした法的な動機付けがあったというのがこの論考の主眼。なるほどねえ。

↓wikipedia(en)より、16世紀のレアルド・コロンボ『解剖学』(1559)15巻の挿絵