『世界の永続性について』9章

フィロポノス『世界の永続性について』は分冊の4巻目(Johannes Philoponos, De aeternitate mundi, vierter teilband ubs von Clemens Scholten, Brepols, 20011)の前半まで来ている。章立てでいうと9章まで。この章はなんとなく、注解としての文章がしなやかに、闊達に伸びていくという印象があって、なにやら妙な勢いを感じさせる……。いずれにしてもまとめのメモを。注解のもとになっているプロクロスの一節は、まとめると「事物が滅するのは悪があるからであって、世界(コスモス)は善なる神の一部なのだから滅することはない。また滅するなら秩序は無秩序へと移行するのだが、世界は滅しないので、もとより秩序vs無秩序のせめぎ合いはなく、したがって無秩序から秩序への生成もない。したがって悪のないところには消滅もなければ生成もない」という感じになる。フィロポノスはこれに対し逐一反論を加えていく。まず、世界(動物とか)は可変であることからそもそも神と等しいということはないとする。次に、滅する理由とされる悪を「自然(本性)からの逸脱」と規定し、限定的存在はすべからく時間とともに自然本性から逸脱すると断じる。こうして世界の秩序と無秩序とが対置され、世界は秩序から無秩序に移行しうるし、無秩序からの秩序への以降もありうるとする。この無から有への移行は自然状態ではありえないが、存在(有)を導く神がいれば話は別だ。たとえば元素は有から有へと変化するのみだが、それが織りなす全体は無から有へと、創造神の下支えによって生成する……。このあたり、キリスト教的な無からの創造という考え方が擁護されている感じでもある。

話はここから質料形相論に行く。自然状態では質料は基体の役割をなし、生成の原理は形相がもたらす。個として成立したものが滅するとは、基体と分離し、基体へと解消することを意味し、生成はその逆で、基体から個を生じさせる。それはちょうど元素が有から有へと移り変わるのとパラレルだ。現実態と可能態との往還も同じようなもので、基体をベースとした流転の考え方に合致する。さらにはそれは時間と非時間との往還といってもよい。けれどもこれを複合体の観点から見ると、まさしく無(複合体が存在しない状態)から有(複合体が存在する状態)が生じると言うこともできる……。この9章では質料を第一の基体として捉え、その観点からすればそれ自体は生成も消滅もしないとしている。根本的な質料論が扱われるのはこの先の11章ということになる。