アラブ世界・ユダヤ世界での魔術観

西欧での魔術の受容と、アラブ世界やユダヤ世界での受容は当然違うはず。となると、その違いとはどのあたりにあるのかが気になってくる。というわけで、そちら方面の関連論文を二つほど見てみた。一つはアラブ世界のピンポイント的な論文。ヘメーン=アッティラ「イブン・ワッシーヤと魔術」(Jaako Hämeen-Anttila, Ibn Wahshiyya and Magic, Anaquel de Estudios Árabes X, 1999)。イブン・ワッシーヤ(10世紀、イラク)はナバテア(北アラビアの遊牧民族)の文献を多数翻訳したという人物。一応は農学者ということになっている(のかな?)。ナバテアの文献には魔術などに関するものも多々あるといい、論文は当時の社会的な魔術の受容と絡めてイブン・ワッシーヤの立ち位置を考察している。イスラム世界ではイスマーイール派(シーア派)が神秘主義的傾向で知られているけれど、10世紀のイラクはちょうど様々な伝統的信仰(思想)への関心が高まった時期で、とりわけ新プラトン主義がもてはやされていた。イスラム教の学僧たちも土着信仰など過去の遺産の発掘に心血を注いでいた。そんなわけで、当時は社会が魔術に寛容だったらしい。とはいえ、ナバテアの異教(多神教)については、訳者のイブン・ワッシーヤはある種の距離を置かなくてはならなかったようだ。イブン・ワッシーヤは新プラトン主義的な世界観を抱き、世界において実際に作用する力として魔術を捉えていたという。自著の農業書にも魔術的な世界観が反映されているという。魔術と農業とフォークロアが渾然一体となっているギリシアのボーロス(デモクリトス)の書に影響されている可能性があるのだとか。地理的にも多様なイスラム世界の全体での魔術受容とか、歴史的経緯とかに触れているわけでないけれど、この論考は10世紀イラクの割とオープンな信仰世界を垣間見させてくれる気がする。もっと詳しく知りたいところ。

一方、ユダヤ教圏についてはより総論的な論文がちょうど紹介されている。ガブリエラ・ノール「キリスト教世界におけるユダヤ魔術」(Gabriella Knoll, Jewish Magic in a Christian World, Columbia Undergraduate Journal of History – Published Online, 2008)。中世のキリスト教世界では、様々な象徴的要素が働いてユダヤ人は魔術使いと見なされていた(キリスト教の拒否が悪魔の手先とのイメージを作ったとか、宝石商が多くいたために、石に秘められた力に詳しいとされたりとか、ユダヤ人の伝統的風習が謎めいていたりしたとか……)。実際のところユダヤ教の世界では魔術に一定の認知・理解があったわけだけれど、それはキリスト教的西欧のものとはだいぶ異なっていたらしい。まずその魔術観はまったく逆で、西欧においては自然魔術は許容され、超自然に訴えるいわゆる黒魔術が敵視されていくのに対して、ユダヤ人の場合、超自然の力を借りないような魔術こそ排除の対象になっていたという。超自然、すなわち神の力(つまりは天使の力)を借りないということは、術師自身に内在する力があることになってしまうからだ。悪魔の位置づけも違っていて、キリスト教世界が堕天使もしくは天使と人間から不自然に生まれた子などとするのに対して、ユダヤ教での悪魔は神が意図的に創造した種であるとされ、そのぶん悪の度合いが低くなっているという。で、そこからの保護のために天使の力に訴えることも許容されるのだ、と。西欧ではエリートと大衆との間で落差のある魔術観も、中世のユダヤ人社会ではさほどの差はなく、学知的な思想を中心に知識の獲得のために魔術の実践が広く共有されていたのだとか。