禁令とオッカムの評価

先に中世後期以降のアリストテレス思想圏について連投していて興味深く読ませていただいたブログ「オシテオサレテ」(坂本氏)が、「中世哲学と検閲」というアーティクルを載せている。『ケンブリッジ中世哲学史』にピュタラズが寄せている「検閲」という一章についてのコメントだ。タンピエによる1270年・77年の禁令にはさほどの実効性はなかったというが、なによりもまず保守派(やや語弊があるかもしれないけれど)のリアクションとしてそれ自体で興味深い気がする。ピュタラズのこの概説でも示されているとおり、そもそも相手を特定せずに漠然とした主張の数々を取り上げている点がすでにして異例であり、それぞれの条項が誰のどんな教説に対応するのか定かではなく、政治的な思惑なども絡んで(教皇サイドの思惑など:教皇使節シモーヌ・ド・ブリオンの役割については、目下読んでいるヴェベール本でも最初のほうで取り上げられていた)実情はすこぶる複雑だったことが窺える。もとより思想史的な枠組みだけで捉えてよいようなものではないのは明らかだけれど、当時の保守派サイドから見た「危険思想」のカタログとして眺めるなら、この本文は結構面白いのではないかと個人的には思っている。実際のところ何を怖れていたのかというあたりはとても気になる(笑)。

ピュタラズはさらにオッカムへの追求とその破門についても触れている。まず、アヴィニョンでの審問はオッカムに「ペラギウス主義」の嫌疑がかかったせいだという話だけれど、これがオッカムの自由意志の考え方のせいだろうというのはなんとなくわかるけれど、具体的な話は同文章からは今一つはっきりしない(ピュタラズは善行と善意の切り離しみたいな話をさらっと書いているだけだ)。後でもうちょっと具体的なことを見てみたい。

また、ピュタラズはオッカム派の学説が1339年にパリ大学で禁じられた点について、ありそうな理由として、オッカムがアリストテレスの10の範疇を2つに縮減したこと、時間概念の批判、そしてオッカムの斬新にすぎるとされた解釈方法を挙げている。このうちとりあえず最初の範疇の縮減については、前に取り上げたパウルス本(ヘンリクス論)に関連した記述があったのでメモっておこう。範疇の縮減は、もともとゲントのヘンリクスが10の範疇を3つ(実体、性質、量)にしていたのを、オッカムがそのうちの1つである量を質料もしくは物質的実体に含まれるとして排除したという経緯がある。実在する事物について人が想像力で捉えうる絶対的なものとは、実体かもしくは性質しかないというわけだ。で、オッカムの場合、異なる事物の間の関係性(ヘンリクスはそれを存在の様態という別個のものと考えていたが)などは、それら絶対的なものが同時に存在することを指し示す名称もしくは概念でしかないと考えている。そして、省察するならばそれこそがアリストテレスの本義に適う議論だ、と宣言しているのだという。あるいはこのあたりが、オッカム(というかオッカム派)がアリストテレスを逸脱し、それにとって代わるかのように見なされた原因の一端なのかもしれない……。時間論と解釈論については、これもまた後で見ることにする。