forma fluensとfluxus formae

またまた溜まった未読PDFの山(推定上の)を、連休期間中に少しばかり片付けようと考えているところ。でもなかなか進まない(苦笑)。とりあえず、ジョン・マクギニス「中世アラビアの、瞬間の運動についての分析:流れる形相/形相の流れ論争へのアヴィセンナの出典」(Jon McGinnis, A medieval Arabic analysis of motion at an instant: the Avicennan sources to the forma fluens/fluxus formae debate, British Journal for the History of Science 39(2), 2006, pp.1-17)という論考に目を通す。中世盛期の自然学の一大問題だったという「運動」概念。アリストテレスの考えたどの範疇に運動が分類されるのかというのがその難問だったというが、ラテン世界ではとくに運動と形相の関係が問題になり、運動はforma fluens(流れる形相)かfluxus formae(形相の流れ)かという議論になったのだという。これらはアルベルトゥス・マグヌスが運動概念を整理する中でまとめているという。運動を目的因から見る場合、それは「完全なもの」になる途中の段階と見なすことができるというわけなのだけれど、その際に最終的状態を運動概念に含めるか、それともあくまで運動は途上の手段にすぎないかで見解が分かれる。前者の立場を取ると、最終的状態はいずれかの範疇に属するので運動はその最終状態の範疇に分類される。また、運動はその過程と到達点を両方含み、両義的な概念となる。これがforma fluensの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴェロエスに帰している。後者の立場を取ると、運動は過程でしかないのでどの範疇にも属さないものになってしまう。運動概念は一義的になる。これがfluxus formaeの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴィセンナに帰している。

アルベルトゥスは、アリストテレスの10の範疇以外の範疇を想定するようなことがあってはならないとして後者に反対する。また、時間と運動をめぐるより深い哲学的議論がその批判の底流をなしてもいるらしい(表題の「瞬間」における運動をめぐるアポリア)。けれども、と同論考は言う。実はここにアルベルトゥスの誤謬があって、実はアヴィセンナは、運動は一義的な概念だが、それはどの範疇にも属さないのではなく、あらゆる範疇に関係するものなのだと論じているのではないか、アヴィセンナは運動の形相がほかの付帯的・一般的形相と同様に実体に帰属していると考えているのではないか、と。ちょっと端折ってしまうけれど、アヴィセンナは「完成(エンテレケイア)」を二種類に分け、潜在態から最終的な完成形までの中間状態を「第一のエンテレケイア」、最終的な完成状態を「第二のエンテレケイア」とすることによって、各瞬間での運動概念を救いだし、さらには時間の各中間点を極限点として考えることで、瞬間における運動の存在をも肯定することに成功しているのだという。

↓Wikipediaより、アルベルトゥス・マグヌスの肖像。トマソ・ダ・モデナによるフレスコ画(1352年ごろ)、トレヴィーゾのサン・ニッコロ修道院