「すりかわり」と作り話

今うちにいる認知症の老母は、昔からモノの所有にやたらと執着するところのある人だったのだけれど、40代の中盤あたりだったろうか、自分の持ち物がいつの間にかすりかわっているという妄想につきまとわれた一時期があった。タンスの引き出しに修理した跡を見つけると「こんな場所に修理の跡なんかなかった。誰かがタンスをすり替えたのだ」などとのたまい、押し入れの服を引っ張りだしては「こんな貧相な服は買ったことがない。誰かがすり替えたのだ」などと訴える。きまって、その誰かというのは本人が快く思っていない親戚筋の人たちだった。ときには、犯行の手口(ありえないような)までいろいろと説明づけようとしてみせた。なかなか強烈な妄想だったようで、子ども(つまり私だが)の前でも平気でそういうことを口走っていた。幼心に「これって病気?」と思ったことを覚えている。当時本人がどういう問題を抱えていたのかは正確にわからないのだけれど、そのときはなにやらモノへの執着の裏返しのようにも感じられたものだった。そうこうするうちに症状は落ち着き、そういうことを言わなくなったのだけれど、それから30年ほど経って、老母が認知症になりかけのある時期、そのすりかわり妄想はいっそう強烈になって蘇った。以前仲良くつき合っていたマンションの管理人夫婦が、この上ない悪者に仕立て上げられてしまったのだ。これはもう、当の管理人夫婦にはお気の毒としか言いようがないほどに……。

なんでこんな話をしているかというと、所有をめぐる哲学的考察集を思うところあって読み始めたのだけれど、その大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000)所収の「所有と固有」(鷲田氏)のなかに、この「すりかわり」の症状の話が出てきたからだ。で、そこでは「すりかわり」が、「所有したくないのに所有せざるをえない」苦境からの一種の解決策であり、またモノの同一性に対する信頼の喪失のあらわれであるといった話が、長井真里『内省の構造』からの引用として示されている。老母のケースでは、所有していたものが劣化した、あるいは所有していたはずの本来のものが失われているという形ですりかわりが発現している。で、失われたその本来のものは誰かが所有しているという話になり、そのためにすりかわりは誰かの犯行だとされ、「犯人」が問題になってしまう。与えられているモノを自分のものとして受け入れられない、自分のモノを自分のモノとして体験できない、というのは同書のいう通りなのだけれど、老母の事例では、それをなんとか解消しようとしてなのか、犯行・犯人をめぐる妄想のストーリーが長々と繰り出されていく。ときには、まるでストーリーを語りたいがためにモノの同一性をあえて否定しているのでは、とすら思えるほどに……。うーん、そのあたりはどうなのだろう。今思い返してみるに、認識錯誤と作り話はほとんど卵と鶏のように両輪一体化していた気がするのだが……。『内省の構造』もぜひ見てみよう。