ビザンツ方面のアリストテレス主義

これも小論だけれど、思想的布置のまとめとして面白い。ディミトリス・ミカロプロス「アリストテレスvsプラトン:バルカンの逆説的啓蒙」(Dimitris Michalopoulos, Aristotle vs. Plato: The Balkans’ Paradoxical Enlightenment, Bulgarian Journal of Science and Education Policy, Vol.1, No.1, 2007)(PDFはこちら)。思想史的にかなり大まかな枠組みとして、西洋世界が中世盛期以後、トマスに代表されるようなアリストテレス思想の受容を軸に動いていったとするなら、ビザンツ世界は9世紀のコンスタンティノポリス総主教フォティオスがギリシア文献の再興を図って以降、プラトン主義が席巻したとされる。ところが15世紀くらいになると状況が変わってくる。まず西洋世界では、ポンポナッツィ(1462-1525)が「魂の不死性は合理的議論で証明できるか」という問題を掲げて登場する。その際の鍵となる議論が、アリストテレスの言うエンテレケイア(現実態)が、キリスト教の死後の生と矛盾しないかという問題だった。そこからパドヴァ大学では、いわゆる唯物論的アリストテレス主義が導かれる(魂の不死は基本的に否定されていく)。パドヴァは1405年からヴェネチアの支配下に置かれていたため、結果的に教会側からの直接攻撃に晒されずにすみ、そうしたある種の異端的な思想が擁立できたということらしい。やがてジャコモ・ザバレラ(1532-89)が先導する形でパドヴァの新アリストテレス主義は勢いを増し、1591年にチェーザレ・クレモニーニがパドヴァ大学に着任しピークを迎える。

クレモニーニはガリレオとの相反で知られているけれど、どうやらガリレオのことをプラトン主義者と見ていたらしい。けれども論文著者によると、もっと重要なのは、クレモニーニにはそのアリストテレス主義を信奉する二人のギリシア人学生がいたことなのだという。その二人とは、後のコンスタンティノポリス総主教キリロス1世となる(1602年)コンスタンティノス・ルカリス、そして後に哲学者としてファナルのアカデミーを率いるテオフィロス・コリュダレオス。両者の名はバルカン半島に広く知られ、とりわけ思想面では後者の影響によって、アリストテレス主義はギリシア正教会の論理武装に一役買うことになるのだとか。パドヴァ流のアリストテレス主義がビザンツ、さらにはバルカン半島全域にまで拡がっていった、というのはなんとも興味深い話。しかもそうした唯物論は、ギリシアを中心にその後も長く続き、近代にいたるまでバルカン一帯の学問的な支えとなっていくのだという。

↓ Wikipedia(en)から、チェーザレ・クレモニーニの肖像