6世紀の新プラトン主義の動向

エドワード・ワッツ「6世紀にはどこで哲学的生活を?ダマスキオス、シンプリキオス、そしてペルシアからの帰還」(Edward Watts, Where to Live the Philosophical Life in the Sixth Century? – Damascius, Simplicius, and the Return from Persia, Greek, Roman, and Byzantine Studies, vol.45(3), 2005)という論考を読む。アテネの新プラトン主義の一派の拠点(プラトン自身が創設したアカデメイアではなかったというのが最近の説らしい)が529年にユスティアヌス帝によって閉じられると、かしらだったダマスキオスやシンプリキオスなどはいったんササン朝ペルシアへと逃れ、532年にローマとペルシアの和平協定が結ばれた後に一行は帰還した……これが歴史家アガティアスが伝える話だが、では一行はどこに帰ったのか?というわけで、同論考はこの問いをめぐる考察。かつてミシェル・タルデュー(宗教学者、歴史家。邦訳だとマニ教 (文庫クセジュ)』(白水社)がある)は、一行が新拠点としたのはハラン(現トルコ、シリアとの国境近く)だとの説を唱え、これが大いにもてはやされたというけれど、現在ではその根拠が問い直されているようで(なにしろその根拠の一つは、中世アラビア世界の学者の証言だったりもするという)、同論考ではむしろ、一行は各地に存在した多神教コミュニティにそれぞれ散らばったのではないかとの見方を支持している。実際、新プラトン主義の学派は、地理的な連続性よりは学説そのものの連続性(継承性)に重きを置いていたともいわれ、また実際にキリスト教系の文献からは、530年代に規模も力も大きな多神教コミュニティが少なからず存在していたことが窺われるといい(ハランもそうしたコミュニティのあった都市の一つ)、彼らを受け入れる土壌は広く存在していただろうという。また、かしらだったダマスキオスが532年の時点で70代の高齢だった事実もあり、新たな学校の創設はあきらめ、弟子たちはそれぞれの道を求めて散っていったとするほうが理に適っているのではないか、と論文著者は記している。まあ、でもこのあたりは資料が乏しいそうだし、なかなか難しいところなのだろうなあ。

その後、新プラトン主義はたとえば6世紀中盤にはパレスチナの修道院コミュニティに影響を及ぼすなど、各地で拡がりを見せていくという。一方でシリアなどではアリストテレスの範疇論やガレノスの医学書、偽ディニュシオス文献などが翻訳で伝えられていく。そんな中、560年代以降はプラトンの文献そのものへの注目は薄れ、学生の便宜を図ってか「プロレゴメナ」(入門書)が多く作られるようになり、比率としてもアリストテレスが優勢になっていくらしい(ガレノスなどについても短縮版が作られるというのが可笑しい)。6世紀末から7世紀初めごろには、プラトンの教義を体系的に教えるということ自体がいったんなくなり、散発的にしか顧みられなくなっていくという……とまあ、これが地中海域全般での状況なのだとか。うーん、でもま、先に見た別の論考では、プラトン主義は9世紀以降にビザンツで息を吹き返すという話もあったし、そう簡単に葬られるわけではないのは確かだ。

wikipedia (en)より、ご存じユスティニアヌス帝の肖像画。ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画(部分)