キルウォードビーとペッカムの誤算

前にちらっと言及した論考だけれど、坂口昂吉「オクスフォードにおけるアリストテレス禁令について」(史学 34(1)、慶応義塾大学、1961)を読み直してみた。うーむ、今なお実に読ませる論考だ。というわけで、内容をメモ的にまとめておこう。オクスフォードのこの禁令というのは、パリでタンピエの禁令が出た1277年3月7日からわずか11日後に、アリストテレスの教説を禁止しようとカンタベリー大司教のロバート・キルウォードビーが、オクスフォード大学の教授の会議で発布した30箇条から成る禁令。キルウォードビーに続いてカンタベリー大司教になったジョン・ペッカムもこれを1284年に再発布するのだけれど、パリの禁令と違い、こちらは後に大いに批判されて総スカンを食らってしまう。同論考によれば、両禁令が大きく違うのは、オクスフォードの方には禁令事項にトマスなどが主張する形相単一説が含まれていたという点。で、これがどうやら両禁令のその後を分かつことになるらしい。

キルウォードビーはトマスと同じくドミニコ会士なのだけれど、思想的にはアウグスティヌス主義を標榜し、そのため形相多数説(複数形相論)を擁護する立場にあった。続くペッカムはフランシスコ会士で、こちらはもとより形相多数説を取っていた。形相単一説を採用すると、無からの創造や死後の肉体の在り方といった教義との整合性に支障をきたす。そのために彼らは形相単一説を糾弾するのだけれど、キルウォードビーの発布後すぐに、コリント司教のコンフレトのペトルスからその点についての批判が寄せられ、またペッカムのほうは、ドミニコ会の英国管区長ホットハムのウィリアムから、トマスとドミニコ会への侮辱だとの非難を受ける。当時アウグスティヌス主義は高位聖職者の間に広く浸透していて(ドミニコ会、フランシスコ会の別なく)、その意味でアリストテレス主義に対する危惧は高まりを見せ、パリの禁令とほぼ連動する形でオクスフォードの禁令は出されるのだけれど、キルウォードビーとペッカムは見誤った点は、一方でトマス主義もまたじわじわと勢力を拡大していたという点。同論文によると、キルウォードビーが禁令を出した翌年の1278年にミラノで開かれたドミニコ会の総会は、彼と英国管区長を非難しているといい、翌1279年のパリでのドミニコ会総会では、トマスの教説がドミニコ会の公の学説として認められた。一方、ペッカムが属するフランシスコ会もその後に態度を硬化させていて、1282年のストラスブールのフランシスコ会総会では、トマスの書が禁書扱いになっているという。ペッカムは形相単一説がそうした両修道会の争いの要になっていることを見誤っていたらしい。

wikipedia(en)より、ロバート・キルウォードビーの肖像画(詳細不明)