初期中世の時刻の算定

これも研究トピックとしてはずいぶん前からあるものだけれど、改めて取り上げておこう。スティーブン・マックラスキー「トゥールのグレゴリウス、修道院の時間管理、初期キリスト教の天文学への姿勢」(Stephen C. McCluskey, Gregory of Tours, Monastic Timekeeping, and Early Christian Attitudes to Astronomy, Isis, vol.81, No.1, 1990)という論考。科学的進展に乏しかったとされる初期中世において、それでもなお復活祭の日にち計算(コンプトゥス)は重要な案件だったわけだけれど、それに劣らず重要だったのが、修道院での聖務日課のために必要となる一日の時刻の算定。天文学的な知識を応用して夜課の時刻を定めるという考え方はカシアノス(4世紀末から5世紀)のころからすでにあり、これが著作を通じて西欧に拡がっていた。修道院は規則によって時刻を告げる責任者を特定していたが、その具体的な時刻の認識方法はまだ各人のアレンジに任されている状態だったという。

天文学的知識とはいっても、当時のものはプトレマイオスのような数学的な天文学ではなく、ヘシオドス『労働と日々』やウェルギリウス『農耕詩』がベースだったといい(あとマルティアヌス・カペラの『メルクリウスとフィロロギアの結婚』も)、そうした経験的・実務的天文知識を本質部分にまで凝縮したものだったようだ。そのあたりの事情を窺えるテキストに、トゥールのグレゴリウス(6世紀)に帰されるという『星々の運行について(De cursu stellarum)』があるのだとか。修道院規則を補完する性質の文書だということだけれど、同文書が取り上げる要素から、当時の修道院文化がどのように天文学的な実践を保持し、変容させていたかが伺い知れるのだと同論考は主張する。

当然ながら、星座の異教的・神話的記述はうまく削除され、キリスト教的な神のみがその運行を支配しているように記されているのだという。グレゴリウスの時代にはまだ異教的因習が残っていて、その結果同文献の一部写本には混淆的な記述も見られるといい、また一方では占星術的な天空の影響などを斥けようとする箇所もあるらしい。日照時間の変化について、グレゴリウスは12月の日照時間を9時間とし、6月まで規則的に一時間づつ伸びていくという単純な計算を示しているというが、これは教会のメノロギオン(聖人暦)など、地中海東側などで一般的な計算方法で、ガリア地域の土着の考え方ではないそうな。月の満ち欠けについても30日周期を採用しているというけれど、これは後のベーダの『時間の計算について』において、ウェティウス・ウァレンス(2世紀の占星術師)によるものとされている、と。季節によって夜課の長さを調節するなどの指示とか、核心部分となる星座位置の(やや大雑把な)図や説明など、『星々の運行について』はなかなか実用的な興味深いテキストのようだが、重要なのはやはり、東方的な影響が随所に見られることだという。そうなると、グレゴリウスが果たして実際の観察にもとづいて同文献を記したのか、それともむしろ古典的な文献などをそのまま採用したのかという疑問が出てくるけれど、これについて論文著者は、星座の位置関係と日の出の時間の統計学的解析から、それらが当時のトゥールに該当するものであるとして、前者の見解を採用している。うーむ、なかなか渋いぜ、この研究は。

wikipedia (en)より、「幾何学者としての神」−−13世紀半ばの『道徳的聖書』(Bible moralisée)の扉絵