通俗的唯名論(雑感)

『クーリエジャポン』の2月号を見ていたら、森巣博「越境者的ニッポン」という連載で、枕部分に、ネオコンに通底する考え方としてサッチャーの言葉だという一句が引かれていた。「社会なんてものは、ない。あるのは個人と家族だけだ」というのがそれ。うーん、びっくり(笑)。そんなことをノタまっていたとは知らなかったなあ。なるほどこれは通俗的な意味での「唯名論」だ。これがネオコン思想に結びつくというのは合点がいく。自己だけがすべてであとは存在しないというわけか。まあ、もちろん唯名論的には、ごくごく大雑把なもので(だから通俗的というわけなのだが)、「オッカムの剃刀」をご都合主義的に適用し、恣意的なサイズでふるってみせているわけだけれど、やはりこういうのは同じ唯名論的な視座からも批判されなくてはならないだろうなあと改めて思う。そう、もう一段ギアチェンジをして、「個人なんてものすらもしかしたらないかもしれない、あるのはある種のプロセスだけかも」とするとかね。ここで通俗は通俗なりに、実在論的な反転(ドゥルーズの通俗版のような)が生じうるというわけで(笑)。

……とそういうふうに記してハタと気がつくのは、昨日の『イカの哲学』にあった「エロティシズム態」なる用語で語られていたものが、その通俗的な実在論的反転に重なってくるということ。他の生命をモノとか商品とかに還元しない方便というのは、声高に「生命の尊重」みたいなことを唱えるという平常態的対応もあるだろうけれど、もう一つ、案外そういう通俗的唯名論の反転の方途もあるかもしれないあなあ、なんて。あらゆるものをモノ・商品と捉えると、さしあたり自分までもがその範疇に入ってしまい、あらゆるものが売り買いのトランザクションでしかなくなり、さらにその売り買いを見据えるなら、不思議とそこに流転する流動体のようなプロセスが見えてきたりして、すべてが流れの中にあることがわかり、まるで同じ一つの生命現象のように重なって見えてくる……とかならないもんだろうか。いやいや、これはいわば「エロティシズム態」的妄想ですけどね。うーむ、さてそろそろ平常態に戻るとしようか……(笑)。