復元と実演 〜古楽への雑感

昨日は毎年恒例のリュート発表会。なんだかリュート習いの一年の締めくくりと、新しい一年の幕開けという感じで、これがないと年が越せない、みたいな(そういえばちょうど旧暦の正月だっていうし)(笑)。今年はバロックリュートで、教本からタウセアナ(?)のプレリュード2曲と講習会でやったド・ヴィゼーのラ・モンフェルメイユ。ちゃんと弾ければ美しい曲。が、相変わらずコケまくり(いつものことか……)。ま、さらっと忘れて次に行こう(笑)。

打ち上げの宴会で出た話の一つに、復元か実演かという話題があった(前にも出たっけね)。古楽演奏ということで、ガット弦を張るなどのオーセンティシー追求という動きもあるわけだけれど、それと音楽的に意味のあるパフォーマンスとは、やはりどこか次元が違うことなのではないか、というわけだ。ま、両方のアプローチがあるわけで、本来は両者の往還が理想的なのだろうけれど、なんだか個人的には、先に取り上げた加藤信朗『アウグスティヌス「告白録」講義』に出てきた、哲学的アプローチ(分析的・分解的)とアウグスティヌスの全体的アプローチ(全体知)との違いや、「教説としての神学」と「探求としての神学」の差などにも通じるものがあるなあ、などと思ってしまった。そう、同書の興味深い点の一つは、アウグスティヌスのアプローチを東方的伝統の枠から理解を試みた点にあった……。

というわけで、この後者のホーリズム的アプローチはときに東洋的(東方的?)なものとして、空間的・水平的に位置づけられたりもするわけだけれど、当然、こういう(習い事のような)身体感覚が絡む領域に通底するという意味では、累積的・垂直的にも位置づけられる。西欧の学知のアプローチが、そうした身体感覚的なものの上に分析的なものを積み重ねているのは誰もが知るところだけれど(日本の伝統芸能などは、身体感覚的なものの上に、それを身体感覚の内発的な合理性みたいなものをさしずめ非分析的に積み上げる、という感じかしら)、古楽の復興なんて言い方がなされるのも、それが分析的・分割的アプローチから成り立っているという意味では、とても西欧的なものだという気がする。実際、日本の和楽器とか伝統音楽とか、「古楽の復興」みたいなアプローチで捉えようとはしないわけで(笑)。そんなことを考えると古楽系のいうオーセンティシー概念がなんとも狭苦しいものにも思えてきたり……。

写真は発表会出陣前の愛器(笑)。

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