「武人ミサ」の発祥?

久々に音楽史がらみの論文を眺める。「ナポリの武人ミサ、ブルゴーニュと金羊毛騎士団:ロム・アルメの伝統の起源」というもの(Brandylee Dawson-Marsh, The Naples L’homme armé masses, Burgundy and the Order of the Golden Fleece: The origins of the L’homme armé tradition, Rice University, 2004)。よく知られているように、ルネサンス期の声楽曲に「武人ミサ(masse l’homme armé)」というのがあり、デュファイやオケゲム、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナなど様々な作曲家がその名の曲を残している。これはその「ロム・アルメ」という世俗のメロディーをミサ曲際の定旋律として用いるという一つの「お約束」(というか伝統)があったからで、1450年ごろから1500年くらいまで、そうしたミサ曲が盛んに作られていた。で、この論考は、表題にもなっているナポリの国立図書館所蔵の写本をもとに、そうした伝統の発祥について問い直そうというもの。

武人ミサの旋律がどのあたりから発祥したかという点については、これまでも様々な議論があった。1523年にはピエトロ・アーロン(音楽家)が、その旋律はアントワーヌ・ビュノワに帰属すると記しているというが、どうやらビュノワの旋律が最も古いというわけではないようで、「ロム・アルメ」の旋律を使ったミサ曲そのものでいえば、最も古いものの作曲家はデュファイ(あるいはヨハネス・レジス)だという。けれども、当然というべきか、おそらくそれ以前の最初期のものもあったろうと考えられているようだ。論文著者は、最初期の武人ミサは15世紀中頃、ブルゴーニュの宮廷に関係していたであろう同地域の作曲家(一人か複数かは不明)によるものだったとの説を支持している。

で、その説の論拠の一つとして、武人ミサの成立をブルゴーニュ宮廷と関連づけてみせるというのが、この論考の前半の主眼となる。ブルゴーニュには、フィリップ善良公(ブルゴーニュ公)がカスティリアのイザベル・ド・ポルチュガルとの婚礼に際して設立した金羊毛騎士団があり、またその宮廷は多彩な音楽家たちが出入りしていた。両者の交流もあったろう。そのことは、たとえばデュファイの手記などから窺い知ることができるらしい。一方で、騎士の馬上試合ほかの宮廷イベント(セレモニーなど)では音楽が必要とされ、それらを介して「ロム・アルメ」の世俗的旋律が宮廷社会の中に浸透していった可能性も高い。で、こうした複合的な連関から、「武人ミサ」の伝統が成立していったのではないか、という話になるわけだ。けれどもこのあたり、論文著者も述べるように、全体が状況証拠による推測(それなりに積み重ねられていはいるのだけれど)なのがとても口惜しい。論考の後半部分では、ナポリ写本にある、ナポリ王フェランテの娘ベアトリーチェ(ハンガリー王に嫁いだ)に宛てたエピグラムをもとに、誰が贈り手だったのかを推測したりしている。フェランテが金羊毛騎士団への加入を果たしていることや、考えられる写本の贈り手としてシャルル剛胆公(ブルゴーニュ公)の名前が挙げられることなど(これも仮説)、ここでもナポリとブルゴーニュの関連性が取り沙汰されている。さらに論考は、紋章の解釈、ナポリ写本の武人ミサにおける歌詞の分析(ブルゴーニュが準備していた十字軍への言及?)などが続く。うーん、どこからか一つぐらい確たる証拠が出てこないかしらねえ?

ナポリ王フェランテ(フェルディナンド1世)