中世の「甘美さ」とは……

名著『記憶術と書物』(別宮貞德ほか訳、工作舎)の著者メアリー・カラザースによる、「甘美さ」と題されたちょっと面白い論文(Mary Carruthers, Sweetness, Speculum, vol.81, 2006)を読む。中世の詩や散文でよく見かける「甘美な」(dulcis、suavis)という言葉が、実際にはどういう意味を含んでいたのかを、各種の文献から浮かび上がらせるという趣向。もちろん一義的には味覚を表す言葉なわけだけれども、比喩的に快をもたらす諸芸の効果などを表すのにも用いられる。その拡がりを検証しようというわけだ。まず重要なこととして指摘されているのが、それらの語が意味する美的判断は、必ずしも道徳的判断を伴ってはいないという点。中世にあっては、感覚的な受容は道徳的判断とは切り離されていて、さらにその感覚的受容には正・反の両方の判断が込められていることも稀ではないという。クレルヴォーのベルナールによる『雅歌』についての説教に、神の名を「油」に喩える一節があり、それが美味(suavis)であるという。著者によればその一説では、suavisには甘さだけでなく塩味をも含まれることが見て取れ、さらにはアリストテレス的な感覚論(味覚と臭覚を感じるには湿度がなくてはならない)も暗示される。さらには正反対のものを投与して治癒させる(乾きと苦みを油の湿度と美味で和らげる)という当時の医学思想をも読み取ることができる。また、アダムとエヴァの楽園追放の場面で誘惑者が甘美さを説くように、suavisには善ばかりか悪の意味合いや、説得という意味合いもある。

カラザースはこれらをもとに、「甘み」が関わる領域として「知識」「説得術」「医学」の三つを挙げ、それぞれの意味論的な関連を検討していく。個人的に興味深かったのは、最初の「知識」についての話で出てきた聖書の訳語の話題。ギリシア語やヘブライ語の聖書が「善良な」を意味する語を用いている場面で、ウルガタ聖書はそれを「甘い、甘美な」と訳し、意味を拡大してしまっているのだという。ギリシア語のχρηστόςにdulcisやsuavisの訳を宛てているのは、古い訳者たちのほかヒエロニムスもいるのだそうだが、ヒエロニムスはいったんそう訳す一方で、文献的考察を加えて「χρηστόςは良いという意味に取るのがよいだろう」とコメントしているという。さらにアウグスティヌスは、「suavitasは悪しきものにも使われる」と指摘し、より強い調子で同様の批判を行っているのだとか。実際、中世に伝えられていた『詩編』(33.9)には、「神は甘美なのだから、味わい、見よ」とするテキストと、「神は善良なのだから、味わい、見よ」とするテキストがあるという。また、これは「説得術」の関連で出てくるのだけれど、suavisとdulcisの修辞学的違いとして、dulcisは修辞的な「味わい」を指す(クィンテリアヌス)のに対して、suavisは凛とした説得力(修辞の目的たる)を指す(キケロ)のだという話も面白い。